東急とセゾン系の競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:55 UTC 版)
しかし郊外の一ターミナル駅に過ぎなかった渋谷が、現在のような都内有数の繁華街にして若者の街となるのは1975年以降であった。セゾングループ(当時は「西武流通グループ」)系列の西武百貨店が1968年に渋谷へ進出したことを皮切りに、続く1973年の渋谷PARCO開店が、今日の渋谷につながる発展の契機となった。以降は渋谷の街を舞台に、東急と西武による熾烈な開発競争が繰り広げられることになる。 1970年頃までは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば新宿であった。その一例として1969年に、当時のベトナム戦争反対運動と学生運動の高揚を背景に、新宿駅西口地下広場で展開された反戦フォークゲリラ運動がある。当時の新宿における若者文化は、そうしたカウンターカルチャーを背景としたものであった。 その後、1970年代には若者の街としての流行発信地が新宿から渋谷へ移動し、若者文化の歴史を大きく変えた。この影響で渋谷だけではなく、渋谷区内の原宿や表参道、代官山などを含めた地域全体に大きな変化が訪れることになる。 社長の堤清二の理想主義的経営を展開したセゾングループにより、1973年に開店した渋谷PARCOは、その後は1980年代の好景気を背景に、糸井重里作の「おいしい生活」などの斬新なキャッチコピーに代表されるように、大衆文化の質自体を「消費文化」へと作り替えた。また早くから渋谷の開発を進めてきた東急グループも、若者向けの店舗として東急ハンズや109を開店して対抗し、「箱根山戦争」などの観光開発で展開された「東急VS.西武」の対決が渋谷の街の流通部門でも繰り広げられることとなった。こうして新宿に代わり若者の街となった渋谷は「消費文化」のシンボル的な都市として注目を浴びた。 東急百貨店本店開業後、東急は店舗前の通り名を「栄通り」から「東急本店通り」に変更、後年には「文化村通り」へと変え、同時に再開発も進めることで現在の街並みが形作られていった。また、渋谷区役所がパーキングメーターを廃止して歩道幅を拡張したのを機に、区民から名称を募集して渋谷パルコの面する「区役所通り」を「渋谷公園通り」へ変更した(パルコはイタリア語で「公園」の意味)。 旧セゾン系 西武渋谷店 - 1968年西武SEED館(現:モヴィータ館) - 1986年 ロフト館(現:渋谷ロフト) - 1987年 キッズファームパオ - 1990年代前半 西武劇場(のちにPARCO劇場へ改名) - 1973年 渋谷PARCOpart1(1973年) part2(1975年) part3(1981年) QUATTRO(1988年)渋谷PARCOは建て替え工事を行い、part1とpart3を統合して2019年11月にリニューアルオープンした。 THE PRIME - 1985年 東急系 東急百貨店東横店(1934年)・東横店別館123(1990年)-渋谷駅周辺の大規模再開発に伴い、2020年に閉店。 本店(1967年)・本店別館クロワゼしぶや(1996年) 東急文化会館 - 1956年天文博物館五島プラネタリウム - 1957年 東急プラザ渋谷 - 1965年(旧渋谷東急ビル、1969年より「渋谷東急プラザ」)建て替えのため解体後、渋谷フクラスを建設し東急プラザ渋谷として再出店。 東急ハンズ - 1978年 ファッションコミュニティー109(現:SHIBUYA 109) - 1979年109-2 (現: MAGNET by SHIBUYA 109) - 1987年 ONE-OH-NINE - 1986年 ONE-OH-NINE 30's Bunkamura - 1989年 QFRONT - 1999年 渋谷マークシティ - 2000年:京王電鉄・帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)と共同開発。 セルリアンタワー - 2001年 渋谷ヒカリエ - 2012年:東急文化会館跡地に建設。 渋谷ストリーム - 2018年 渋谷スクランブルスクエア - 2019年 (東棟):JR東日本・東京メトロと共同開発。
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