東南アジア外交
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三木は1966年(昭和41年)4月に東京で開催された、日本政府が戦後初めて主導した国際会議である、東南アジア開発閣僚会議の実現を強力に押し進めた。 三木はかねてからアジア外交重視の姿勢を見せていた。アジアの貧困を、共産勢力のアジアへの浸透を促す、アジア情勢最大の不安定要因であると見なしており、日本の安全保障の観点からもアジアの貧困問題に対する対処が必要であると考えていた。そして通産相となった三木は、日本国内の不況克服のためにも東南アジア諸国への輸出拡大が効果的であると判断した。更には首相の座を目指していた三木にとって、これまでの日本外交の過度な対米偏重を正し、アジア重視の姿勢を訴えることが政治的に見てプラスになるとの判断もあったと推測される。 当時、ベトナム戦争の最中であり、対東南アジア政策に苦心していた米国も、日本が東南アジアの経済建設に大きな役割を果たすことを期待するようになっていた。高度経済成長を遂げた日本が東南アジアの経済建設に協力するようになれば、東南アジア諸国での共産化の進展に歯止めがかかることが期待できるとともに、何よりも米国の負担軽減に繋がる。しかし日本国内では財政上の負担の大きさなどを懸念する声が強く、当初なかなか話が進まなかった。 三木は通産相として東南アジア諸国の農業、軽工業への支援に積極的に乗り出すべきであると考えた。三木は先述したように、まず東南アジアの農業、軽工業を支援して貧困からの脱却を図ることが大切であるという点と、農産物などの一次産品の供給先、そして工業製品の輸出先として東南アジアが有望であるという点を主張した。米国側の更なる要請もあり、三木通産相、椎名悦三郎外相は東南アジア諸国への経済開発に積極的に取り組むべきとし、東南アジア諸国との貿易拡大を期待する財界も三木らの意見に賛同した。そして財政負担の拡大を不安視して消極的であった福田赳夫蔵相も、東南アジア諸国への経済開発に取り組むことを了承した。 しかし東南アジア開発閣僚会議の開催計画については、財政負担を不安視していた大蔵省の反対が続いた。閣内では三木、椎名が閣僚会議の開催に積極的であったが、佐藤、福田は積極的ではなかった。結局東南アジア諸国との貿易拡大を望む財界からの説得もあり、東南アジア開発閣僚会議の開催が決定された。 1966年(昭和41年)12月3日、内閣改造により三木は通産大臣から外務大臣に横滑りする。外相就任直後、アジア太平洋圏構想を発表する。日本はアジアの一員であるとともに先進国であり、日本がアジア唯一の先進国としてアジア諸国の開発にイニシアチブを取るべきであるが、日本一国ではアジアの開発問題に対応しきれないことも明白であるため、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった太平洋諸国が協力してアジアの開発問題に取り組む必要がある、という趣旨である。三木の構想の背景には、アジア諸国への経済協力を推進することが当時の日本の国力から見て困難であった点とともに、日本のイニシアチブを強調することが、アジア諸国の中に戦前の大東亜共栄圏の記憶を呼び起こしかねないという懸念があった。 三木は構想具体化に向けて、まずオーストラリアに対する働きかけを図った。しかし第二次世界大戦で日本と敵対したオーストラリア間には、まだ十分な信頼関係が構築できる情勢ではなく、そしてオーストラリア自身まだ旧宗主国である英国との繋がりが強かったため、三木のもくろみは上手く運ばなかった。また三木が通産相時代に進めた東南アジア開発閣僚会議も、日本と東南アジア諸国との思惑の違いが表面化し、定着するには至らなかった。 三木のアジア太平洋圏構想自体は、「日本がアジアの一員でもあり、西側先進国でもあるという一種の境界国家ともいえる不安定なアイデンティティ」という弱点を逆手にとって、「アジア諸国と西側先進国との架け橋となることにより日本の境界性を生かす」という長所へと変えるしたたかな構想ではあったが、具体性や現実性に欠ける面も多く、三木の在任中には思うような成果は挙げられなかった。しかし三木の構想は日本外交にアジア太平洋という新たな枠組みを与え、1989年に発足したアジア太平洋経済協力会議(APEC)へと繋がっていくことになる。
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