東南アジア地域連合軍の到着の遅延とは? わかりやすく解説

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東南アジア地域連合軍の到着の遅延

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:10 UTC 版)

マスタードム作戦」の記事における「東南アジア地域連合軍の到着の遅延」の解説

1945年8月末までに東南アジア各方面での占領任務割り当てられイギリス軍部隊準備終え一部は既に出発していた。しかし連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーSEAC対し東京にて正式な日本の降伏手続きが行われるまで再進駐を控えるように要請したため、正式な占領任務開始8月28日改められた。また、その後台風影響9月2日まで延期されている。要請背景には、各地展開する日本軍野戦指揮官らと日本本国意思疎通が既に途絶していたため、日本政府降伏手続き待たない行動野戦指揮官らの反発招き軍部隊の降伏拒否につながる可能性危惧されていたことがあるマッカーサー要請により連合国軍ベトナム到着遅延したため、日本軍捕虜となっていたフランス軍部隊解放も遅れ、8月15日以降様々な現地勢力による政治的空白地帯支配進められた。こうした情勢下で最も利益受けたのが共産主義勢力であったホー・チ・ミン指揮下のベトミンは独自の政府成立させるべく、他勢力駆逐しハノイサイゴン確保目指した。8月17日にはベトミン総蜂起によるベトナム八月革命発生し9月2日にはベトナム帝国廃されベトナム民主共和国北ベトナム)の独立宣言された。 革命最中8月22日には、フランス共和国臨時政府代表したジャン・セディール(フランス語版少佐が、南ベトナムにおける統一準備政府である南部暫定行政委員会との交渉のためにコーチシナへと落下傘降下したものの、現地日本軍守備隊によって護衛と共に逮捕されサイゴンへと連行されている。セディール解放後改め委員会との交渉着手し、後にインドシナ高等弁務官任命されている。 9月10日南部暫定行政委員会南部人民委員会改組された。委員会委員長ファム・バン・バック(ベトナム語版)、副委員長軍事委員チャン・ヴァン・ザウなど13人から成っており、グエン・バン・フオン(ベトナム語版)博士率い50人の諮問委員会付属した連合各国フランスインドシナ領有認めていたが、再進駐についてはアメリカ合衆国からの反対があった。この時点アメリカ政府公的な立場において共産主義勢力であるベトミンへの敵意明らかにしてはいなかった。 マッカーサーによる降伏文書調印式9月2日戦艦ミズーリ艦上行われ3日後には各地捕虜収容所に対して支援物資パラシュート投下が行われた。更に翌日、ALFFIC先遣隊サイゴン入りし、11日には旅団主力ビルマのモビ飛行場(Hmawbi Field)からバンコク経由サイゴンまで輸送された。サイゴンでは未だ武装保った日本軍ベトミン軍の将兵によって連合国軍部隊歓迎式典が行われた。

※この「東南アジア地域連合軍の到着の遅延」の解説は、「マスタードム作戦」の解説の一部です。
「東南アジア地域連合軍の到着の遅延」を含む「マスタードム作戦」の記事については、「マスタードム作戦」の概要を参照ください。

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