東南アジア地域連合軍の到着の遅延
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「マスタードム作戦」の記事における「東南アジア地域連合軍の到着の遅延」の解説
1945年8月末までに東南アジア各方面での占領任務に割り当てられたイギリス軍部隊は準備を終え、一部は既に出発していた。しかし連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがSEACに対し、東京にて正式な日本の降伏手続きが行われるまで再進駐を控えるように要請したため、正式な占領任務の開始は8月28日と改められた。また、その後台風の影響で9月2日まで延期されている。要請の背景には、各地に展開する日本軍野戦指揮官らと日本本国の意思疎通が既に途絶していたため、日本政府の降伏手続きを待たない行動が野戦指揮官らの反発を招き、軍部隊の降伏拒否につながる可能性が危惧されていたことがある。 マッカーサーの要請により連合国軍のベトナム到着が遅延したため、日本軍の捕虜となっていたフランス軍部隊の解放も遅れ、8月15日以降は様々な現地勢力による政治的空白地帯の支配が進められた。こうした情勢下で最も利益を受けたのが共産主義勢力であった。ホー・チ・ミン指揮下のベトミンは独自の政府を成立させるべく、他勢力を駆逐してハノイやサイゴンの確保を目指した。8月17日にはベトミンの総蜂起によるベトナム八月革命が発生し、9月2日にはベトナム帝国が廃されベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立が宣言された。 革命最中の8月22日には、フランス共和国臨時政府を代表したジャン・セディール(フランス語版)少佐が、南ベトナムにおける統一準備政府である南部暫定行政委員会との交渉のためにコーチシナへと落下傘で降下したものの、現地の日本軍守備隊によって護衛と共に逮捕され、サイゴンへと連行されている。セディールは解放後に改めて委員会との交渉に着手し、後にインドシナ高等弁務官に任命されている。 9月10日、南部暫定行政委員会は南部人民委員会に改組された。委員会は委員長ファム・バン・バック(ベトナム語版)、副委員長兼軍事委員チャン・ヴァン・ザウなど13人から成っており、グエン・バン・フオン(ベトナム語版)博士率いる50人の諮問委員会が付属した。 連合各国はフランスのインドシナ領有を認めていたが、再進駐についてはアメリカ合衆国からの反対があった。この時点でアメリカ政府は公的な立場において共産主義勢力であるベトミンへの敵意を明らかにしてはいなかった。 マッカーサーによる降伏文書調印式は9月2日に戦艦ミズーリ艦上で行われ、3日後には各地の捕虜収容所に対して支援物資のパラシュート投下が行われた。更に翌日、ALFFIC先遣隊がサイゴン入りし、11日には旅団主力がビルマのモビ飛行場(Hmawbi Field)からバンコク経由でサイゴンまで輸送された。サイゴンでは未だ武装を保った日本軍とベトミン軍の将兵によって連合国軍部隊の歓迎式典が行われた。
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