本櫓と控櫓
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河原崎座はその後9年間にわたって代興行を続けたのち、延享元年(1744年)に再生なった森田座のもとに興行権を無事返還している。それから40年たった天明4年(1784年)には、市村座が破綻して向う3年間の休座を町奉行所に願い出た。その結果今度は桐長桐(きり ちょうきり)が代興行権を引き当て、翌天明5年(1785年)に桐座(きりざ)を復興した。そして約束通り3年後の天明8年(1788年)には再生なった市村座に興行権を返還している。この結果、もし将来中村座が休座するようなことになれば都伝内(みやこ でんない)の都座(みやこざ)にその興行権が渡ることが事実上確定し、ここに中村座・市村座・森田座の本櫓(ほんやぐら)に対する都座・桐座・河原崎座の控櫓(ひかえやぐら)という代興行の慣行が定着した。 この天明から寛政(1781〜1800年)の時代は、天明の大飢饉で米価が記録的な高騰を見せたかと思えば、寛政の改革による極端な緊縮財政で市場が深刻な不況に陥ったりして、経済は混乱を極め、庶民はそれに翻弄された。宵越しの銭は持たないと言われるほど気前の良かった江戸っ子も、そう易々と芝居見物へなどとは言っていられないご時勢となったのである。この影響をもろに受けたのが芝居町で、客足が激減した三座はいずれも深刻な経営難に陥った。まず寛政2年(1790年)には森田座が破綻して2度目の休座、寛政5年(1793年)には地代滞納請求の訴訟を数人の地主から起こされた中村座がついに休座となり、これに続いて再興したばかりの市村座もまた破綻して2度目の休座となってしまった。その結果、堺町には都座が、葺屋町には桐座が、木挽町には河原崎座が櫓をあげ、江戸三座はそのすべてが控櫓となる事態になったのである。 さらに20年ほど下った文化14年(1817年)には、その前年に3度目の破綻で休座した市村座に代わって代興行をしていた桐座が1年足らずでやはり破綻するという局面を迎えていた。その結果市村座の代興行権は桐座を経て都座によって代行されるという変則的事態となったが、その翌年にはなんとその都座もまた破綻してしまうのである。残る河原崎座はこのときすでに3度目の破綻で休座した森田座に代わって櫓をあげていた。そこで市村座座元の十一代目市村羽左衛門は都座座元の都伝内と図って、新たに第4の代興行主を仕立て上げるという窮余の策をひねり出す。白羽の矢が立ったのは、神田明神の宮地芝居の座元の名跡「玉川彦十郎」を預っていた薬舗・三臓園の主人だった。彼の先祖が承応元年(1652年)に葺屋町で櫓をあげた玉川座は、その後間もなく経営難で廃座となり宮地芝居に転落、その後の興行も鳴かず飛ばずで、この文化年間にはもうすっかり忘れ去られた存在になっていた。そこで両座元は「玉川座は実はその後も櫓をあげ続けていた」ということにして、「寛文9年(1669年)には境町に移転、さらにその地で元禄のはじめ頃まで都合30有余年にわたって興行をしていた」という「事実」を大胆にも捏造し、この虚偽の沿革を記した玉川座の由緒書と共に、市村座の興行権を玉川彦十郎に代行させることを町奉行所に願い出たのである。 破綻休座した座の座元である市村羽左衛門は、本来ならば人目を憚って謹慎しているべき身の上である。にもかかわらず、羽左衛門は桐と都の代興行主をまるで持ち駒のように使い果たした挙句、三座制の枠組みを無視するかのように新たな代興行主を模索し、芝居興行とは全く無縁となっていた薬屋の主人を座元に仕立て上げるというなりふり構わぬ手段を講じた。しかも古文書を調べればすぐにでも捏造が露見するような虚偽の由緒書まで添えたとあっては、これはもう立派な違法行為である。かつて江島生島事件で没落した山村座と五代目山村長太夫のように、羽左衛門にとってこの申請は一つ間違えば伊豆大島へ遠島、そして市村座は廃座となりかねない極めて危険な賭けだった。ところが意外にも町奉行所はこの申請を受理すると、すんなりと数日内にこれを許可、葺屋町には誰も聞いたことがないような玉川座(たまがわざ)の櫓があがる一幕となった。この間わずかに3年。市村座 → 桐座 → 都座 → 玉川座 とたらい回しされた興行権は、玉川座による3年間の代興行ののち、文政4年(1821年)に無事市村座に返還されている。 江戸で文化末年から文政初年にかけて繰り広げられたこの未曾有の椿事からは、官許三座制が江戸では単に常設の芝居小屋の数を制限するための規制に終らず、この頃までにはすでに江戸歌舞伎の興行が存続するための根拠として進化を遂げていたことが見て取れる。その鍵となったのが控櫓の制度であり、またそれを極めて柔軟に運用したことだった。結果的にはこのことが、江戸では歌舞伎興行が衰退するようなことがただの一度もなかったことの最大の要因となった。官許の座制や控櫓の制度が発達しなかった上方歌舞伎では、実際にこの江戸時代後期から衰退が始まり、その凋落傾向は収まることなく戦後昭和まで続いて関西歌舞伎は崩壊するに至ったのである。 さて控櫓の中でも河原崎座は森田座の興行権を頻繁に代行した。これは森田座の経営が極めて不安定で、資金繰りに行き詰まっては破綻して休座することが特に多かったためである。森田座の地には、時に20年近くにわたって河原崎座が櫓をあげ続けていたこともあった。今日残る江戸三座を描いた錦絵や江戸府内の地図には、中村座と市村座にならんで河原崎座が描かれているものが非常に多いのはこのためである。 時代が下るにつれて本櫓と控櫓の関係は表裏一体に近いものとなり、代興行は負債逃れの常套手段と化していった。つまり本櫓に借金が嵩んで首が回らなくなると、破綻休座によってその負債をいったん棚上げにし、代わって控櫓が一から商売をやり直す。その控櫓も行き詰まるとやはり破綻休座して負債を一時棚上げし、そこでそろそろほとぼりも冷めた本櫓が債権者に対して、元本や利子の大幅な減額や返済年限の延長など、時に負債の棒引きに近いほど債務者に有利な返済計画を提示し、それをもって本櫓再興に漕ぎ着けるという具合である。債権者にとっては結局大損となったが、それでも本櫓が返済不能で廃座になりでもしたら文字通り元も子もなくなってしまうので、少しでも焦げ付きが回収できる道を選ばざるを得なかったのである。
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