本櫓と控櫓とは? わかりやすく解説

本櫓と控櫓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:55 UTC 版)

江戸三座」の記事における「本櫓と控櫓」の解説

河原崎座その後9年間にわたって興行続けたのち、延享元年1744年)に再生なった森田座のもとに興行権を無事返還している。それから40年たった天明4年1784年)には、市村座破綻して向う3年間の休座を町奉行所願い出たその結果今度(きり ちょうきり)が代興行権引き当て、翌天明5年1785年)に桐座(きりざ)を復興した。そして約束通り3年後天明8年1788年)には再生なった市村座興行権返還している。この結果、もし将来中村座が休座するようなことになれば都伝内(みやこ でんない)の都座(みやこざ)にその興行権が渡ることが事実上確定し、ここに中村座市村座森田座の本(ほんやぐら)に対す都座桐座河原崎座控櫓ひかえやぐら)という代興行慣行定着した。 この天明から寛政(1781〜1800年)の時代は、天明の大飢饉米価記録的な高騰見せたかと思えば寛政の改革による極端な緊縮財政市場深刻な不況陥ったりして、経済混乱極め庶民はそれに翻弄された。宵越しの銭は持たないと言われるほど気前良かった江戸っ子も、そう易々と芝居見物へなどとは言っていられない時勢となったのであるこの影響をもろに受けたのが芝居町で、客足激減した三座はいずれ深刻な経営難陥った。まず寛政2年1790年)には森田座破綻して2度目の休座、寛政5年1793年)には地代滞納請求訴訟数人地主から起こされ中村座がついに休座となり、これに続いて再興したばかりの市村座もまた破綻して2度目の休座となってしまった。その結果堺町には都座が、葺屋町には桐座が、木挽町には河原崎座をあげ、江戸三座はそのすべてが控櫓となる事態になったのである。 さらに20年ほど下った文化14年1817年)には、その前年3度目破綻で休座した市村座に代わって代興行をしていた桐座1年足らずでやはり破綻するという局面迎えていた。その結果市村座の代興行権桐座経て都座によって代行されるという変則的事態となったが、その翌年にはなんとその都座もまた破綻してしまうのである。残る河原崎座はこのときすでに3度目破綻で休座した森田座に代わってをあげていた。そこで市村座座元十一代目市村羽左衛門都座座元の都伝内と図って新たに第4の代興行主仕立て上げるという窮余の策ひねり出す白羽の矢立ったのは、神田明神宮地芝居座元名跡玉川十郎」を預っていた薬舗・三臓園の主人だった。彼の先祖承応元年1652年)に葺屋町でをあげた玉川座は、その後間もなく経営難で廃座となり宮地芝居転落その後興行鳴かず飛ばずで、この文化年間にはもうすっかり忘れ去られ存在になっていた。そこで両座元は「玉川座は実はその後をあげ続けていた」ということにして、「寛文9年1669年)には境町移転、さらにその地で元禄のはじめ頃まで都合30有余年わたって興行をしていた」という「事実」を大胆に捏造し、この虚偽沿革記した玉川座由緒書と共に市村座興行権玉川十郎代行させることを町奉行所願い出たのである破綻座した座の座元である市村羽左衛門は、本来ならば人目憚って謹慎しているべき身の上である。にもかかわらず、羽左衛門と都の代興行主をまるで持ち駒のように使い果たした挙句三座制の枠組み無視するかのように新たな興行主模索し芝居興行とは全く無縁となっていた薬屋の主人座元仕立て上げるいうなりふり構わぬ手段講じた。しかも古文書調べればすぐにでも捏造露見するような虚偽由緒書まで添えたとあっては、これはもう立派な違法行為である。かつて江島生島事件没落した山村座五代目山村長太夫のように、羽左衛門にとってこの申請一つ間違えば伊豆大島遠島、そして市村座は廃座となりかねない極めて危険な賭けだった。ところが意外に町奉行所はこの申請受理すると、すんなり数日内にこれを許可、葺屋町には誰も聞いたとがないうな玉川座(たまがわざ)のがあがる一幕となったこの間わずかに3年市村座桐座都座玉川座たらい回しされた興行権は、玉川座による3年間の代興行ののち、文政4年1821年)に無事市村座返還されている。 江戸で文化末年から文政初年にかけて繰り広げられたこの未曾有の椿事からは、官許三座制が江戸では単に常設芝居小屋の数を制限するための規制に終らず、この頃までにはすでに江戸歌舞伎興行存続するための根拠として進化遂げていたことが見て取れる。その鍵となったのが控櫓制度であり、またそれを極めて柔軟に運用したことだった。結果的にはこのことが、江戸で歌舞伎興行衰退するようなことがただの一度もなかったことの最大要因となった官許の座制や控櫓制度発達しなかった上方歌舞伎では、実際にこの江戸時代後期から衰退始まり、その凋落傾向は収まることなく戦後昭和まで続いて関西歌舞伎崩壊する至ったのである。 さて控櫓中でも河原崎座森田座興行権頻繁に代行した。これは森田座経営極めて安定で、資金繰り行き詰まって破綻して座することが特に多かったためである。森田座の地には、時に20年近くわたって河原崎座をあげ続けていたこともあった。今日残る江戸三座描いた錦絵江戸府内の地図には、中村座市村座ならんで河原崎座描かれているもの非常に多いのはこのためである。 時代が下るにつれて本櫓と控櫓の関係は表裏一体に近いものとなり、代興行負債逃れ常套手段化していった。つまり本借金が嵩んで首が回らなくなると、破綻休座によってその負債をいったん棚上げにし、代わって控櫓一から商売やり直す。その控櫓行き詰まるとやはり破綻座して負債一時棚上げし、そこでそろそろほとぼり冷めた債権者に対して元本利子大幅な減額返済年限延長など、時に負債棒引きに近いほど債務者有利な返済計画提示し、それをもって再興漕ぎ着けるという具合である。債権者にとっては結局大損となったが、それでも本返済不能で廃座になりでもしたら文字通り元も子もなくなってしまうので、少しでも焦げ付き回収できる道を選ばざるを得なかったのである

※この「本櫓と控櫓」の解説は、「江戸三座」の解説の一部です。
「本櫓と控櫓」を含む「江戸三座」の記事については、「江戸三座」の概要を参照ください。

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