最上特定地域総合開発計画
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第二次世界大戦後、全国各地で台風や豪雨による水害が発生し、最上川水系でも例外ではなかった。1948年(昭和23年)のアイオン台風、翌1949年(昭和24年)のキティ台風と連続して台風の被害を受け、1950年(昭和25年)には年に4度も洪水による被害を受けた。4月1日~2日には融雪洪水で124戸が浸水、6月4日~5日には梅雨前線豪雨で302戸と約1,630haの農地が浸水、被害の痛手が回復しないうちに6月22日~23日には再度豪雨災害を受け80戸と約800haが浸水被害を受けた。そして8月3日~4日に4度目の水害が発生し723戸が流失・浸水、約3,870haの農地が被災。国鉄仙山線の面白山トンネルが崩落する被害となった。こうした相次ぐ災害を受け、多目的ダムによる河川総合開発事業が最上川水系でも計画された。 1949年に経済安定本部は全国10水系を対象に『河川改訂改修計画』を策定し、最上川水系は北上川水系、鳴瀬川・江合川水系と共に対象になった。そして最初に着目されたのは長井市を流れる置賜野川である。河況係数が大きい置賜野川は大雨が降れば洪水、日照りになれば渇水と極端な河川であったが河川改修は不十分であった。このため山形県は「野川総合開発事業」を策定し、補助多目的ダムとして管野ダムを1953年(昭和28年)に建設する事で、治水・利水に充てようとした。ところが管野ダムだけでは当初の目標を達成できない事が判明、このため上流に木地山ダムを1961年(昭和36年)に建設して補強する事で置賜野川の治水と長井市の農地灌漑が確保された。1954年(昭和29年)には国土総合開発法が施行されたが、最上川水系は「最上特定地域総合開発計画」の対象地域となった。これ以降、総合開発事業が推進され、鮭川流域で河川総合開発事業が着手された。当初は鮭川支流の真室川に釜淵ダムが建設される予定であったが、その後に計画が変更され高坂ダム(鮭川)が建設された。 下流の庄内地域では赤川放水路が1936年(昭和11年)に開鑿されたものの旧流路がそのまま残存していた。このため赤川を最上川から完全に分離させる締切事業が行われ、1954年に完成。赤川は最上川水系から分離され、「赤川水系」として独立した。中流部では建設省(現・国土交通省)の直轄管理区域が拡大し、1962年(昭和37年)には中流部の約63.0km区間で建設省による堤防整備などの河川改修が実施された。 ところが1967年(昭和42年)8月28日に羽越豪雨が流域を襲い、置賜地方を中心に死傷者145名、浸水家屋16,610戸、堤防決壊158ヶ所、被災農地約14,437haという甚大な被害を受け、激甚災害法に指定された。更に1969年(昭和44年)8月には庄内地域を中心に豪雨災害が発生、死傷者12名、浸水家屋4,086戸、堤防決壊68ヶ所という庄内では過去最悪の被害となった。これらの豪雨災害を受け建設省は最上川水系の治水対策を抜本的に変更する必要に迫られた。折から1965年(昭和40年)の改正河川法施行で最上川水系は一級水系に指定され、水系一貫の河川整備が要求された。建設省東北地方建設局(現・国土交通省東北地方整備局)は『最上川水系工事実施基本計画』を策定、特定多目的ダムによる洪水調節を計画に盛り込んだ。 置賜白川に白川ダムが1980年(昭和55年)、寒河江川に寒河江ダムが1990年(平成2年)に建設され最上川の洪水調節を図った。山形県も補助多目的ダムとして蔵王ダム(馬見ヶ崎川)、白水川ダム(白水川)、綱木川ダム(綱木川)などを建設して最上川支流の治水を行った。こうした事業に加え中流部に遊水池である大久保遊水地が1977年(昭和52年)より建設され、1997年(平成9年)に完成した。こうした治水整備によって最上川における水害は減少し、1997年の豪雨では羽越豪雨に匹敵する洪水だったにも拘らず、浸水家屋67戸と被害を最小限に抑制する事が出来た。
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