暗黒街の首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 15:28 UTC 版)
1920年代からタマニー・ホールの政治ネットワークを通じて政界・司法界に影響力を広げていった。ジミー・ハインズやジミー・ケリー(ディサルヴィオ)、カーマイン・デサピオ、ユーゴ・ロジャースら多くの政治指導者と付き合いがあった。タマニーの中枢までコステロの権力は及び、州や市の判事・検事の人事を動かし、「暗黒街の首相」と言われた。「1942年にニューヨーク市政を完全に支配するに至った」(キーフォーヴァー中間報告) とまで言われ、1940年代を通じてその権勢は頂点に達した。 1939年、ユダヤ系の大物ルイス・バカルターがデューイに追われて潜伏した時に当局と折り合いをつけるために、政界人脈が豊富で、かつ自身が捕まる可能性の少ないコステロに頼ったと言われる。 1941年11月、マーダー・インクのエイブ・レルズが同僚の殺人関与を次々と証言した末、6人の警官に保護されたホテルの6階から墜落死したが、マーダー・インク副長だったアナスタシアに告発が及ぶのを恐れたコステロが事件の黒幕とされた。ブルックリン地区首席検事ウィリアム・オドワイヤーは1940年10月、レルズの証言を元にアナスタシアを殺人容疑で指名手配し、組合犯罪や未解決の失踪事件もアナスタシアの仕業として連日のようにアナスタシアをバッシングしていたが、レルズの死を境に捜査を打ち切った。レルズを警察の独房に置かずホテルの一室に置いたのはオドワイヤーで、ホテルの護衛を警官時代の旧友フランク・バルズに任せた。後年キーフォーヴァー委員会に出頭したオドワイヤーは、アナスタシアの告発を打ち切った経緯を厳しく追及された。同じく委員会に呼ばれたバルズは、レルズ墜落死の真相を「自白」するよう殺人裁判の被告さながらに責め立てられた。 1945年にオドワイヤーはニューヨーク市長に当選したが、出馬する時にコステロに「許可」(選挙資金)をもらいに行ったことやマフィアの身内や仲間を公職に就かせていたこと、両者の連絡役を務めていたとする男の証言などがキーフォーヴァー委員会で明らかにされた(オドワイヤーは1950年8月警察の汚職スキャンダルで市長を辞任)。 1943年8月、マンハッタン地区検事フランク・ホーガンが民主党の攻撃材料にコステロとトーマス・アウレリオ判事の電話の盗聴テープを公開し、政治スキャンダル化した。会話では、アウレリオがコステロにニューヨーク市の最高裁判事の指名を獲得した礼の言葉を述べ、コステロがそれを祝福し、続けてアウレリオが「あなたにしてもらったことに全力で報いる。一生ついていくつもりだ」 と忠誠の言葉を口にした。この盗聴テープは後年キーフォーヴァー委員会で再び取り上げられた。 同じ頃コステロは、ルチアーノの釈放のためランスキーと共に政界工作に奔走した。最終的に、当時州知事になっていたデューイを動かし、1945年12月にルチアーノの特赦が決まった(外国人犯罪者処遇の通例に倣い、国外退去の形ではあったが)。デューイは後年、検事時代の活躍を買われてキーフォーヴァー委員会に証言協力を求められたが、口実を設けて出席しなかった。その後、ランスキー傘下の会社の顧問になった。 FBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官との付き合いは1920年代後半に始まり、2人とも競馬好きで一緒にレース見物に行った。コステロはフーヴァーの10ドル、20ドルというケチな賭けのため、インチキレースを仕組んだりしたという。1935年6月、コステロのニューヨークの賭博団の一員がマイマミで強盗を働いて捕まった時、コステロも逮捕され、FBIはコステロを調査したが、司法省の命令で動いただけで、2年後に告訴を取り下げた。フーヴァーはワシントンの本部からちょくちょくマンハッタンに来てコステロとセントラルパークで会っていたという(複数のFBIエージェントの言)。50年間FBIのトップに君臨したフーヴァーは、8人の大統領と17人の司法長官にマフィアの組織はアメリカに存在しないと言い続けた。
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