景勝地としてのピョウタンの滝
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「ピョウタンの滝」の記事における「景勝地としてのピョウタンの滝」の解説
被災後のダムは水利権保持の手続きを取ってそのまま残されていた。1つの滝のような姿となったダムが、いつからピョウタンの滝と呼ばれるようになったかは、はっきりしない。「ピョウタン」の語源はアイヌ語で「小さな砂利の多いところ」という意味の「ピヨロ・コタン」とされるが、「ヒョウタン」から転じたという説もある。かつて付近に「ピョウタン沢」と呼ばれる地名があったともされる。1969年(昭和44年)の記録には「元・札内川電力ダム」との表記があるが、ダムはいつしか「ピョウタンの滝」と呼ばれるようになり、1973年5月の中札内村の広報誌では「ピョウタンの滝」の名で紹介されている。 ピョウタンの滝の周辺一帯を整備する動きが現れたのもこの頃で、1966年(昭和41年)に中札内村は「元・札内川電力ダム」付近に東屋を建設しようとしている。この背景として、日高山脈を横断して中札内村と静内町(現、新ひだか町)を結ぶ日高横断道路の実現に向けた運動が進んでいたことと、付近の林道整備が進んでいたことから、滝近辺の渓谷美を活かした村づくりの新しい気運を生み出そうという気持ちが施政者にあったとされる。また、1972年(昭和47年)には、簡易水道の取水施設として北海道がダムを買い上げることになった。この際、改修工事が行われ、出水時の越流に合わせて左岸川が広げられ、堤頂長が84.5メートルに拡大された。 村内のやまべ養殖事業の興産、そして南札内渓谷への関心を高める取り組みとして、1972年5月16日と翌年5月15日に、ダム跡地の右岸にてそれぞれ1万匹以上のやまべを放流する催しが行われた。この催しは1974年(昭和49年)の5月12日からは「ピョウタンの滝やまべ放流祭」と名付けられ祭り形態の催事となった。そして、この動きと連動するようにピョウタンの滝下流で札内川を横断する「虹大橋」の建設が進められ、1974年の10月30日に完成した。1975年(昭和50年)の第四回「やまべ放流祭」では放流数5万匹、参加者は千名となり、太鼓演奏などの催しも行われた。1976年(昭和51年)からは、7月1日のやまべの解禁日に合わせ、「やまべ放流祭」の開催が7月第一日曜日に変わり、以降この開催日で定着している。また、中札内村によって札内川園地の整備が始まっており、同年、林野庁により「南札内渓谷札内川園地」に指定され、翌年の1977年度(昭和52年度)から本格的な整備が進められた。1976年(昭和51年)から1991年(平成3年)までの間で断続的に、トイレや駐車場、キャンプ場などのほか、運動施設や野外ステージ、遊歩道などが整備され、札内川園地の敷地総面積は12万ヘクタールにまで広がった。この間、1981年(昭和56年)には「日高山脈襟裳国定公園」が指定され、札内川園地も公園内に含まれた。1991年(平成3年)には中札内村のシンボルマークが決定し、ピョウタンの滝の「タン」にちなんで「ピータン」と名付けられている。 ピョウタンの滝は札内川園地の入口に位置し、札内川を代表する観光名所となった。札内川園地は最盛期には集客数が年間10万人前後にのぼり、十勝管内随一の優良な公園として評価された。「ダムとしては使えなかったけど、観光客を呼ぶ“滝”としては一級品」とも言われた。しかし、その後は集客数が減少に転じ、ピョウタンの滝の上流に札内川ダムが完成した時点で6万5千人、2006年度(平成18年度)には2万2千人となった。この集客数減少の原因には、ライフスタイルの変化や集客施設の多様化が考えられているほか、札内川上流域の活性化の決め手と期待されていた日高横断道路の建設が2003年(平成15年)に凍結・中止されたことも要因の一つに挙げられている。 このような状況ではあるが「やまべ放流祭」は毎年続けられており、2011年(平成23年)には40回の節目を迎えている。また、2008年(平成20年)には「北海道遺産」を取りまとめた北海道遺産構想推進協議会により「ムラの宝物」に選定された。
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