日本女子サッカーの誕生
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「女子サッカー」の記事における「日本女子サッカーの誕生」の解説
日本のサッカーにおける女子サッカーの歴史はそれほど長くない。大正年代に香川県立丸亀高等女学校の生徒たちが袴姿でサッカーをする様子を撮影した写真が現存しており、クラブチームの東京蹴球団には女性選手が2名所属していたという。しかし、その後女性がサッカーに携わるのは、おもにマネージャーなどが主であった。1960年代から70年代にかけて競技を行う女性が少しずつ見られはじめ、1966年11月には神戸市立福住小学校で「福住女子サッカースポーツ少年団」が誕生。同じ年には神戸女学院中学部の3年生によるチームも誕生し、翌1967年3月19日にはこの2チームによる対戦が、神戸市王子陸上競技場で開催された「第1回神戸サッカーカーニバル」での一戦として行われた。この試合では主審および2名の副審も、すべて女性が担当した。 1972年には東京でFCジンナンが誕生。その後関東地方において、望月三起也が設立したワイルド・イレブン・レディース(横浜)、三菱重工女子サッカー部 (三菱重工社員を中心としたクラブ)、三菱養和レディース、実践女子大学サッカー同好会などが誕生し、京浜女子リーグ、チキンフットボールリーグ (東京都)、横浜女子サッカーリーグなどのリーグも設立された。 一方で、1976年に神戸市で神戸FCの女子チーム (神戸FCレディース)、三重県上野市で伊賀上野くノ一が設立された他、1978年には清水市立入江小学校でサッカーの指導にあたっていた杉山勝四郎によって清水第八スポーツクラブが、また大阪府高槻市では高槻女子フットボールクラブ (スペランツァFC大阪高槻の前身とは別のチーム) が設立された。関西地区においては関西女子サッカーリーグが設立され、神戸女学院 (中学部・高等学部)や高槻女子FC、大阪FCレディース (現バニーズ京都SC) などが参加した。 1979年にFIFAが各国のサッカー協会宛てに、女子サッカーを管轄下において普及と発展に努める旨の通達を出した事を受けて日本女子サッカー連盟が設立され、ベルリンオリンピック時の日本代表選手であった加納孝が会長に就任した。立ち上げと運営の継続には初代理事長・森健兒ら、三菱グループの尽力があった。初期の会議は三菱養和の会議室で行われたという。この団体はその後日本サッカー協会加盟団体となり、女子サッカーは正式に同協会の管轄下に入った。 1980年には全日本女子サッカー選手権大会が開催され、男子サッカーの天皇杯全日本サッカー選手権大会にあたる大会として日本全国のチームを対象とするトーナメントが行われるようになった。第1回大会ではFCジンナンと高槻女子FCが決勝戦に進み、2-1で勝利したジンナンが初代チャンピオンとなった。第2回大会から第8回大会までは、清水第八SCが7連覇した。第1回・第2回大会までは、8人制、25分ハーフ、4号球使用で行われていたが、第3回大会より11人制でグラウンドの面積も男子サッカーと同じ大きさとなり、第4回大会では試合時間が25分ハーフから30分ハーフに変更された。第7回大会からは、試合用のボールが男子と同じ5号球に変更された。 1980年代後半より、FIFA女子ワールドカップの新設を前提とする国際親善大会の開催 (1988年) や、1990年度アジア競技大会における女子サッカーの正式種目への採用など、国際状況が変化する中で、所属クラブにおける試合経験を積むための場所がない事が問題とされた。1989年、日本女子サッカー連盟は全国リーグの設立という結論に達し、日本女子サッカーリーグが設立された。 以後長らく日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)を頂点とするリーグ体系が維持されてきたが、女子サッカーについてもプロリーグの設立を求める意見が多くなってきたことから、2021年に新たにプロリーグとしてWEリーグが発足し、なでしこリーグはアマチュアリーグとなる(男子サッカーにおけるJリーグとJFLのような関係)。
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