日本国外への影響
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浮世絵がヨーロッパに最も早く渡った例として、1798年(寛政10年)に、カピタンらが葛飾北斎に日本人男女の一生を図した巻子を注文し、故国に持ち帰ったことが挙げられる。またシーボルトは多量の日本資料を持ち帰り、1832-52年に『Japonica』20分冊を刊行するが、そこには『北斎漫画』が掲載されている。 1856年、ブラックモンが、日本から輸入された陶磁器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を見せ回ったことで、美術家に知られるようになったとの「逸話」は、現在では疑問視されている。 ゴッホが『タンギー爺さん』の背景に浮世絵を描き込んだり、歌川広重の作品を模写した。エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、メアリー・カサット、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ロートレック、ゴーギャンらにも影響を与えた(ジャポニスム)。 日本美術を取り扱っていたビングは、自身の工芸作品に浮世絵表現を取り入れた。 クロード・ドビュッシーが葛飾北斎の『神奈川沖波裏』に触発されて『交響詩“海”』を作曲したとされることもある。しかし、ドビュッシーの部屋の壁に『冨嶽三十六景-神奈川沖波裏』がかけてあったり、初版楽譜に似た絵柄が使われたりしているものの、「着想を得た」という資料は発見されていない。
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日本国外への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 04:50 UTC 版)
「日本国外の日本庭園」を参照 19世紀後半、欧米圏ではジャポニスムの流行とともに、庭石・太鼓橋・灯篭・茶室などを配した日本風の風景式庭園がつくられるようになった。現地の作庭家が日本をイメージして奔放に制作したものもあれば、日本から職人を招いて制作したものもあるが、いずれも「日本庭園」(Japanese Garden)と称される。 1867年のパリ万国博覧会は日本(江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩)が初参加した万博であったが、このときに日本庭園が制作されて以来、欧米で開催された万博において日本庭園は日本の出展物の目玉の一つであった。ヨーロッパでは貴族や富豪が日本風庭園を作るようになり、北米大陸でも公園の一角に日本風庭園や茶亭が制作されるようになった。この時期、ヨーロッパで活動した日本人庭師に畑和助ら、北米で活動した日本人庭師に岸田伊三郎らがいる。 お雇い外国人として来日していたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルは、1893年に『日本庭園入門』(Landscape gardening in Japan)をケリー・アンド・ウォルシュ社から出版した。日本庭園の沿革から構成方法いたるまでを小川一真の撮影による写真を多く用いて視覚的にもわかりやすくまとめたもので、コンドルは、日本の庭園造形は周囲の自然風景の特徴ある部分を選び出してレ・プレゼントしたものである、と説明している。この本はイギリスのほか上海やシンガポールでも販売され、児玉実英によると、当時この本を参考にアメリカなど海外で日本庭園が実際に造られたとされる。第二次世界大戦後はアメリカで復刻され、現在でも講談社インターナショナルで復刻版が刊行されている。 イギリス人植物学者レジナルド・ファラー(英語版)は日本やアジア諸国の植物採集旅行をする中で日本の庭園に惹かれ、その経験がロックガーデンの造園法に関する著書に反映されている。 また、戦前の日本造園学会や日本庭園協会、日本造園士会の設立などにも井下清らとともに重要な役割を果たす龍居松之助は造園史の研究と教育の傍らで庭園に関する多くの著作を英訳し、海外への紹介につとめている。第二次世界大戦後は、姉妹都市間の交流の一環などとして新たに日本人作庭家の設計による日本庭園も作られていく。またアメリカ合衆国では、日本庭園愛好者のための専門誌も発行されている。
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