日本の出展
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「パリ万国博覧会 (1900年)」の記事における「日本の出展」の解説
1900年のパリ万博には日本も出展し、各パビリオンにおける様々なジャンルの出品に加えて、メインパビリオンでは大規模な古美術の展示が行われた。日本が海外において古美術をこれだけの規模で一堂に展示するのは初めての事であり、これによって海外の人々に「本邦の美術を敬慕するの念を起こしめたる」ことを目的としていたが、アール・ヌーヴォーの嵐が吹き荒れるパリ万博において、さしたる評価は得られなかった。 日本館に加え、政府の出展したティーハウスでは紅茶、ウーロン茶、抹茶などの販売を行った。この茶店を評して、1892年に日本を旅行したことのあるバートン・ホームズは手記に「日本人は世界で最も趣味のよい国民なのに、この万博の茶店は建物も売っているものも百貨店で売られているようなガラクタの類だ」と記した。 また大関を中心とする兵庫県の酒造メーカー連合が酒舗を設け、日本の酒類の販売を行った。当時は海外にあまり日本酒を好む人はおらず、巨額の金がかかる上に「まだ時機が来てない」として、日本の事務局は一旦断ったが、新販路の開拓に期待をかける全国酒造組合の熱意に押されて許可することにした。珍奇なものを好む人がいるので、5月1日の開店当初は盛況だったが、しだいに客が減り、8月15日時点で31704フランの赤字を出し、経営不振のため万博の閉会を待たずに8月31日をもって閉店。跡地は菊花展の会場に充てられた。
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