日本の働く女性の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 09:57 UTC 版)
日本においては19世紀末から紡績業、製糸業等の工業化が進み繊維産業が日本経済の要となった。繊維産業は労働者の大多数を占める女工と呼ばれる若年の女性労働者の長時間労働に支えられており、一般に女工の待遇は良くなかった。女工らは2交代、徹夜、最長36時間の過酷な労働に従事させられ、寄宿舎に軟禁された 。出発点となった富岡製糸場では女工と呼ばれる若年の女性労働者の待遇は比較的良好で、高収入であった例もある。 1916年に公布された工場法による規制は守られず、まったく不十分なものであった。大正時代における紡績業では12時間労働と過酷なものであり、そのほか多くの問題があったことは、細井和喜蔵の『女工哀史』(1925年)で広く知られている。工場法改正による労働者保護の強化など、1920年代にはこうした状況を改善する動きがあったが、日本経済が統制色、戦時色を強めるにつれ、忘れられていった。 戦間期には第一次世界大戦中の設備投資や世界経済の好調により、工場以外でも女性の進出が進んだ。1920年には、働く女性の過半が専門職でその多くは既婚であったが、1930年には、未婚の事務職が中心となっていた。 この時代にエレベーターガール、バスガール(バスガイド)などの『**ガール』と呼ばれる職業が登場した。また、女性の社会進出を背景に自立した女性によるモダンガール文化が花開いたが、1929年からの世界恐慌で、自由な気風が失われた。1943年、連合国との第二次世界大戦の時期には、戦争によって男子の労働力が不足し、社会インフラを補う目的で多数の女性らが工場や鉄道、消防の現場などに男子の代替として投入された。その他に女子挺身隊が組織され女学生も軍需工場に勤労動員された。しかし終戦後は再びそれらの職域には男性らがつき、女性の多くは家庭へ戻り主婦となった。 第二次世界大戦後、労働者の待遇の改善の求めから労働基準法の制定や各規制が成立。その後、男女の不平等な給与待遇差を問題視する声が上がり、1985年には男女雇用機会均等法が制定され、数次の改正がされた。 戦後から1960年代前半までは、賃金労働を継続する女性と、賃金労働から解放された専業主婦とに2分化する傾向があった。1960年代後半に入ると、高度経済成長により、社会全体の高学歴化により製造業で若年労働者が不足し、主婦がパートタイマーとしてその不足を埋めた。 1970年代からは高等教育を受けた女性が増え、事務職などで若い女性の就業率は伸びていった。一方で、30歳代の女性に結婚・育児などを機に離職し、そのまま復帰しない、または、復帰後も職歴を活かす職に就かない・就けない傾向が見られるようになった。その後も、女性の就業人口は伸び続けたが、就業分野は製造業、卸・小売業・飲食店業、サービス業に集中しており、非正規雇用の増加も目立った。 2019年には、働く女性の約56.0%が非正規雇用であり、正規雇用率の高い20代後半でも約32.1%となっている。戦後の日本経済において、主に主婦層からなるパートタイム労働者は好況時に増加し、不況時には減少することで「景気の調整弁」としての役割を持っていた。 2019年の雇用形態別雇用者数の内訳 2019年の女性雇用者数の雇用形態別内訳 2019年の男性雇用者数の雇用形態別内訳
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