日本の傷痍軍人
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日本においても日露戦争後に大量の傷痍軍人が出現して大きな社会問題となり、国家により救済支援制度が整備された。また、第二次世界大戦において多くの軍人が戦死し、あるいは傷痍軍人となった。戦時下においては戦傷もまた名誉の負傷とされ、在世中の軍人傷痍記章を着けることを許され、社会的に優遇を受けることもあった。 ポツダム宣言による第二次世界大戦の停戦後、連合国の占領下で軍事援護の停止による恩給の打ち切りなど、戦傷を負った人々とその家族の生活は困窮と苦難の淵にあった。サンフランシスコ講和条約発効による主権回復のあと、軍人恩給の復活とともに傷病者への支援に改善をみた。戦後、厚生省のもとでその補償がなされるようになり、軍人恩給等の対象ともなった。財団法人日本傷痍軍人会(会員の高齢化により2013年11月30日、結成60周年で解散)を中心として、各地に傷痍軍人会が設立され、傷痍軍人の生活の援護と親睦福祉増進を図る事業が展開されている。21世紀となって、日本における傷痍軍人は既に亡くなった者が多いが、生存者に対する慰労や補償とともに、物故者に対する慰霊や顕彰、遺族補償の問題は未だ大きな問題となっている。 傷痍軍人と呼ばれた戦傷兵の収容と看護は、法の成立・改正により次のような変遷を経ている。日露戦争は開戦2年で大量の傷病兵が本土へ帰還したため、1906年(明治39年)4月の廃兵院法成立後、廃兵院が各地に設けられた。1934年(昭和9年)3月の傷兵院法によって廃兵院は傷兵院と改称され、1938年(昭和13年)厚生省が設けられ、傷兵院は厚生省外局の傷兵保護院に所属とした。その翌年には傷兵保護院は軍事保護院に改称され、付属として各地に傷痍軍人療養所が併設された。 連合国軍占領下の1945年(昭和20年)12月には陸軍病院と海軍病院合わせて146の施設は国立病院となり、同時に傷痍軍人療養所53施設は国立療養所となった。2004年(平成16年)4月、全国の国立病院と国立療養所は基本的に国立病院機構の傘下に入っている。ちなみに、ハンセン病傷痍軍人のための療養所として開所した国立駿河療養所は、厚生労働省直属の国立ハンセン病療養所である。 傷、痍ともにキズ(傷)を意味するが、大きな傷として腕や脚を失った傷痍軍人も多くいた。軽傷の者は復員後故郷に晴れて戻ったが、体の一部を戦禍で失ったこれら元軍人は仕事に就ける訳でもなく、その生涯の多くを国立療養所やその後の国立病院で過ごすこととなった。日々の生活はそこで送っていたものの、都会の人通りが多い駅前や、地元の祭りや縁日にはその場に来て、露天商が並ぶ通りなどの通行人から金銭を貰い、小遣いとした。 1950年頃になると、傷痍軍人の街頭募金は各都道府県の条例で禁止されるようになった。同年12月23日、傷痍団体中央連合会の約50人が厚生省を訪れ事務次官と会見し、恩給の増額、街頭募金を制限しないこと、生活保護法の適用など9項目の要求を行った。
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