日本での講演
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 01:00 UTC 版)
「アルベルト・アインシュタイン」の記事における「日本での講演」の解説
1922年(大正11年)、「出版業界きっての立役者」と名を馳せた改造社創業者・山本実彦は、同出版社および雑誌「改造」が日本に招致したバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガーに次ぐ「世界的名声人士」として、懇意になっていたアインシュタイン博士を妻エルザとともに日本に招待することにした。招待する側には、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増の見込みもあったが、日本は当時大正デモクラシーの時期であり、アインシュタイン来日は社会的にも大きな意味を持っていた。招かれたアインシュタインの側は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的である、と語っている。 日本滞在は1922年11月17日から12月29日までの43日間となった。 10月8日、フランス南部・地中海に面したマルセイユから日本郵船「北野丸」で出港。香港から上海へと航海中の11月10日、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。11月13日午前11時、上海に入港。14日朝、上海を出港し神戸に向かった。 11月17日16時すぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎、女性問題ですでに大学を辞職していた東北帝国大学元教授だった石原純と教授の愛知敬一、九州帝国大学教授の桑木彧雄(石原と愛知は長岡の弟子。石原と桑木はアインシュタインとスイスにて面識があった)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車で京都に向かい、その夜は京都の都ホテルに宿泊した。翌18日、9:15発の特急で東京に向かい、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに通常は車で5、6分程度のものの、相当の時間が必要だったと記録されている。 一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度であった。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市・福岡市で各1回の計8回行われ、14,000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純が行った。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った。 なお、この訪日の際に人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある。
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