日本での貢献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:02 UTC 版)
「ピエール・リトバルスキー」の記事における「日本での貢献」の解説
1992年には浦和レッズのオファーを受けたが、オファーを断った。1.FCケルンとの契約が切れる1993年、ジェフユナイテッド千葉へ移籍、推定年俸は外国人選手としてはリーグ第2位の2億5000万であった。契約以前に日本を訪れたことはなかったが、1.FCケルン時代にチームメイトだった奥寺康彦に「お前は前から日本人だったんだよ」と言われるリトバルスキーの性格と、控え目で秩序正しい日本人の性質がマッチし、創成期のJリーグにおいてすぐにチームの中心となるなど、健在振りをアピールした。ジェフに入団するために日本にやって来た際には、約5000人のファンや大勢の報道陣が空港で待ち受けた。なお、リトバルスキーは1993年にJリーグに在籍していた外国人選手の中で唯一、FIFAワールドカップ優勝経験がある選手である。1993年5月19日のヴェルディ川崎戦で直接FKからJリーグ初ゴールを決めた。同年のセカンドステージ、8月7日に札幌厚別公園競技場で行われたヴェルディ川崎戦では試合には1-2と敗れたが、コーナーキックから直接ゴールを決めた。1994年になると清雲栄純監督と激しく対立し、さらにネナド・マスロバルの加入により、9月21日の横浜フリューゲルス戦に先発し、0-3と敗戦した試合以降はベンチ入りさえもせず、1994年限りで現役引退を表明した。1996年に現役復帰してジャパンフットボールリーグ(旧JFL)のブランメル仙台で2年間プレーした。1997年、JFA 公認S級コーチ資格を取得した。
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