施政権の分離
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日本の降伏後、GHQ(連合国軍最高司令部)は1945年9月2日付の指令第1号で、「日本国委任統治諸島、小笠原諸島及他の太平洋諸島」については米海軍太平洋艦隊司令官(CINCPAC)の管轄下に、日本本土とこれに隣接する諸小島、琉球諸島、南朝鮮とフィリピンについてはGHQの管轄下に置くことを命令している。同月20日には、グアム基地に駐留していたCINCPACの部隊が大島の波浮港に偵察のため来航した。南の島々を制圧してきたCINCPACにとっては、小笠原諸島と本土との間に連なる伊豆諸島は「太平洋諸島」の延長上にあるものと認識されたらしく、GHQもそれを黙認するように、CINCPAC上陸の3日前に日本陸軍へ上陸の事前通告を送っている。この上陸後も、島の行政機能は東京都の出先機関である大島支庁と各村が担っていた。 1946年1月29日にGHQが指令した「若干の外かく地域を政治上行政上及び行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPPIN-677)では、日本の施政権の停止範囲を以下のように定義した。 日本の範囲から除かれる地域として (a)欝陵島、竹島、済州島。(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島。(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島。 この情報が伝わった伊豆諸島の各村では、施政権除外範囲の中に「伊豆・南方」という文言が含まれていることを受けて騒然となった。折からの物資不足によって窮乏にあえぐ伊豆大島にも、この知らせは追い打ちをかけるものであった。混乱に際して当時の島内6ヶ村の村長らによる会議が持たれているが、この会議に出席した立木猛治は『伊豆大島志考』の中で次のように記している。 こともあろうに東京都下伊豆大島は、一朝にして日本国の帰属から分離して祖国を喪ってしまったのである。(…)当時大島では取り敢えず支庁長を初め各村村長が、今や外国となった日本政府や東京都庁と連絡を取り、元村では各層各階の代表者を召集して役場楼上に一世の大会議を開いた。不肖もその末席にあったのでその記憶によれば、参会者はいずれも沈痛の想を心中に秘め、拳で涙を押し拭い乍ら数時間にわたり真剣に熟議を遂げた。準備委員によって作成された諸件の原案を柳瀬村長から説明があり、会議はこれを諒としたのであるが、要は大島の独立を目ざして憲法を制定しようというのであったから、ことはなかなか重大である。 具体的な経過としてはまず、1月30日または31日に当時の伊豆大島6ヶ村による村長会、2月1日には大島支庁や金融機関等も含めた合同協議会が開かれ、島の民主的自治・島民生活の安定・世界平和に寄与する政治団体の創設に向けた申し合わせがなされた。2月7日に、大島議会の議員選挙にかかわる準備委員の選定会議が開かれている。 2月21日に大島駐屯隊長ライト大尉から元村(現在の大島町元町)村長・柳瀬善之助に対し、日本からの行政分離と、軍は当面の間行政機関を置かず監督のみ行う旨の通達があった。これを受けて、2月末には6ヶ村の村長の会合、3月1日には合同協議会が再度開かれた。3月3日の準備委員会議により各村から選出された準備委員が集まり、「大島自治会議」による協議が進められる運びとなっている。暫定憲法案はこの3月のどこかで発せられたものと見られる。 これと並行する形で、柳瀬は立法・行政府にあたる「最高政治会議」、司法府に相当する「自治運営協議会」などの素案作成に着手している。2月25日には、柳瀬以下5名を幹部とする「大島島民会(仮称)」が設立され、設立趣意書とともに「大島島民会規約(案)」が提出された。23条からなるこの規約は、おおむね「大島共和国」樹立の素案と言ってよいものであった。島民会は2月27日・28日に会議が重ねられ、選挙民・非選挙者資格や委員定数などの原案が策定されている。暫定憲法の最終案は、この原案をもとに成立したものと思われる。
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