施済孫と日本・琉球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 21:26 UTC 版)
施進卿は1416年(永楽14年/応永23年)頃に死去したと見られ、その後を施済孫が継いだ。1419年(応永26年)、施済孫が派遣したと思われる使節が南九州(阿多氏領内とみられる)に到来している。九州探題渋川満頼(道鎮)・義俊父子は南蛮船の博多回航を促し、翌1420年(応永27年)に南蛮船は博多に入港した。室町幕府は兵庫に来航するよう指示したが、これが果たされたかは不明である。わかっていることは、かれらは帰国前に船を失ってしまったことである。琉球の外交史料『歴代宝案』によれば、1421年(応永28年)に渋川道鎮はパレンバンの「施主烈智孫」(「主烈」はサンスクリットのSri、智孫は済孫と音通)が派遣した使者を琉球に送り、琉球からパレンバンに帰国させるよう依頼した。しかし、当時は琉球とパレンバンの間に国交がなかったため、琉球から暹羅に派遣する船に載せて、暹羅から転送するよう措置が取られた。
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