教訓・政治文学
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中王国時代の文学作品はしばしば政治的なプロパガンダ(宣伝)を目的とするものであったとされる。書記達は王と密接に結びついており、彼らを読者として想定した作品群は王の意向を色濃く滲ませたものとなったとされる。フランスのエジプト学者ポズネールは、第12王朝時代に成立した文学は王の利害と密接に結びつき、政治宣伝を目的としたものであると指摘している。 こうした文学作品の中でも代表的な物は『シヌヘの物語』、『ネフェルティの予言』、『アメンエムハト1世の教訓』などであり、いずれも政治的傾向を強く持った作品となっている。 『ネフェルティの予言』は、遥か昔の古王国時代に第12王朝の創設者アメンエムハト1世が救済者として現れることが予言されていたと記す事後予言の体裁を取る物語である。全体は三部で構成され、第1部では物語の舞台としてのスネフェル王の宮廷で、ネフェルティが予言を語るに至った経緯を語る。第2部では(古王国から見て)将来に訪れる混乱と無秩序の時代が描写され、その悲惨さが述べられる。第3部で、南方よりきたアメニ(アメンエムハト1世)が秩序を確立し、国土を救済される様が予言されるというものである。 『アメンエムハト1世の教訓』は、暗殺されたアメンエムハト1世がセンウセルト1世に王者として注意すべきことを語るという体裁をとっており、文書の形式は墓などに刻まれる自伝に近いと言われる。ここでアメンエムハト1世が語る内容は、ある程度実例に沿っているともいわれ、非常に厳しい内容である。冒頭の呼びかけの後「臣下の前では注意せよ。彼らは無に等しい者であり、その尊敬など気にかける必要は無い。一人で彼らに近づいてはならない。兄弟を信頼するな。友人を知るな。腹心を作るな。何にもならぬからだ。」と始まり、いかに他人が信頼できないかが述べられる。その根拠としてアメンエムハト1世は、自分が引き立てた者達が自分に対して反乱を起こしたことを述べている。また、アメンエムハト1世の暗殺が行われた状況も生々しく記録されており、それによればアメンエムハト1世は夕方に一時間余りの休養をとって寝台に横になっていた所、衛兵によって襲われた。彼は激しく抵抗したものの武器が無く、遂に殺害されたのである。 また、中王国時代には教訓文学と呼ばれる多数の作品も作られた。第1中間期を通じて各地で勢力を延ばした州侯やその他の有力者達は、中王国の覇権を認めてはいても無視できない力を持っていた。第11王朝のメンチュヘテプ2世はその指導力を持って彼らの地位を奪い自分の意のままになる人物で固めようとしたし、第12王朝においても中央集権化のために長期的な努力が行われたと見られている。中央集権化と地方有力者への対抗上、官僚機構の整備は急務となった。そのため上述のように書記養成学校が政府によって用意され、第1中間期の「社会革命」を通じて生まれていた富裕民の子弟等を対象に教育が施された。彼らは子供を長期間学校に行かせることが可能な経済力を持ち、地方有力者の子弟よりも王への忠誠心を持たせやすいと考えられたのである。 『ケミイトの書』や『ドゥアケティの教訓』と呼ばれる作品である。どちらも書記養成学校における教科書として使用するために作られた作品である。『ケミイトの書』は書記になるために必要な知識を初学者に教えるためのもので、書簡を書く際の書式や慣用表現、生活態度などを記したものである。 『ドゥアケティの教訓』は、職人や農夫、洗濯屋など様々な職業の辛さ、惨めさを列挙するとともに、こういった職業についている子弟を対象に家業を継ぐよりは書記になったほうがよほど良い生活を送ることができるという説明をするもので、書記養成学校へ庶民の子弟を勧誘する事を重視している点が特徴である。 他に『忠臣の教訓』や『ある男の教訓』などの作品も残されており、こちらは一般庶民の子弟を対象に王に対する忠誠とそれによって得られる物質的利益を説明する物である。
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