摘発
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:45 UTC 版)
太政官は密偵を福岡市中に潜入させて調査し、証拠が揃ったところで7月18日、弾正台役人・渡邊昇の一行が博多に入り、翌19日早朝、藩庁・通商局・銀会所に踏み込んで捜索し、贋造紙幣や印刷機を押収、職人ら27名を逮捕、通商局の三隈伝八らに謹慎を命じ、一網打尽となる。22日、摘発を終えた渡辺一行が小倉へ引き上げる道中の青柳宿に、知藩事・黒田長知が騎馬で駆けつけて来て釈明陳情をした。藩の幹部らも逮捕・護送される。 藩庁は大混乱となり、弁明しようにも新政府に人脈がなく、唯一新政府の役人となっていた早川勇(薩長同盟を発意した人物)にとりなしを依頼した。また西郷隆盛と親しい矢野梅庵(矢野安雄の父)が鹿児島に赴いて西郷に窮状を訴えた。8月3日付の西郷から大久保利通に宛てた手紙には、事件の処分は小河ら幹部の首までに留め、恩義ある黒田長溥(島津家から黒田の養子に入り西郷をかくまった前藩主)に咎が及ばないよう穏便に処置をしてほしいと訴え、自分の首を差し出す覚悟はいくら「あほうな筑前」でも分かっているだろうと書いている。 金の贋造は新政府の威信に関わることであり、参議の木戸孝允は旧藩勢力に対する見せしめとして証拠があきらかな福岡藩に的を絞って断固たる処分を決意する。大久保利通も厳格に対応するつもりであったが、西郷の手紙でだいぶ軟化したとされる。 1871年(明治4年)7月2日、弾正台より判決が下される。 藩知事・黒田長知、免職・閉門。 藩の幹部・立花増美、矢野安雄、小河愛四郎、徳永織人、三隈伝八、計5名が斬罪。 遠島・禁固42名、懲役・罰金刑50余名。 即日執行され、最初に発案した山本一心はすでに病死しており、郡成巳は獄中で発狂して死亡した。 7月11日、有栖川宮熾仁親王が新知藩事として福岡城内に入り、福岡藩は事実上廃藩となった。3日後の14日、全国一斉に廃藩置県が断行された。旧藩主一家は東京移住を命じられ、8月23日、士族町民らの群衆が涙ながらに見送る中、港から船で福岡を離れ、ここに黒田長政以降270余年に渡る黒田氏の筑前支配は終焉を迎えた。 最後の大老・黒田一雄(黒田播磨の次男)は福岡に残り、明治6年の筑前竹槍一揆で暴徒の説得にあたり、明治10年に第十七国立銀行(福岡銀行)を設立するなど、沈滞する福岡の復興に尽力した。
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摘発
「摘発」の例文・使い方・用例・文例
- 政治汚職の摘発
- 彼は広がりを見せる汚職スキャンダルで摘発された最初の国会議員です。
- 捜査員らは暗殺計画を摘発しました。
- 犯罪を摘発する.
- 詐欺の暴露[摘発].
- 警視庁は総力をあげて町に巣食う暴力団の摘発に乗り出した.
- その会社は脱税で摘発された.
- 政府を当惑させるような摘発が続いている.
- 醜行を摘発する
- 誤謬を摘発する
- 人の過失を摘発する
- 同業者の過失を摘発する
- 先生が生徒に説明の誤りを摘発されて何食わぬ顔をして曰く「諸君はこの誤りに陥るなかれ」と
- 人の悪事を摘発する
- 人の私行を摘発する
- 彼の虚言を摘発してやった
- 詐欺師か詐欺の摘発
- キリシタン教徒を摘発すること
- 昔,武士の行動を監視し,不法な行いを摘発した職である「横目付」の略
- そこで今では,同じ業種の日系企業が,彼らのブランド名を不正使用する製造業者の調査,摘発に共同で取り組んでいる。
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