戦術の過激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 16:38 UTC 版)
「エメリン・パンクハースト」の記事における「戦術の過激化」の解説
1908年6月26日、50万人の活動家が女性の投票権を求めてハイド・パークに結集したが、アスキスや有力国会議員は無関心を貫いた。こうした頑迷な態度や警察による虐待に怒った一部のWSPUメンバーは活動を過激化させていった。集会の直後、12人の女性がパーラメント・スクエアに集まって女性参政権のための演説を試みた。警察官は演説者の数人を取り押さえ、周囲に集まっていた反対派の群衆の中に無理やり押しやった。これに不満を持ったWSPUの2人のメンバー、エディス・ニューとメアリー・リーは、ダウニング街10番地に行き、首相官邸の窓ガラスに石を投げつけた。彼女たちは自分たちの行動はWSPUの指示によるものではないと主張したが、パンクハーストはこうした行動を容認する姿勢を示した。裁判所がニューとリーに2ヶ月の禁固刑を宣告すると、パンクハーストは、イギリスの歴史を通じて様々な男性の政治的扇動者が法的権利や公民権を勝ち取るために窓ガラスを割ってきたことを裁判所に指摘してみせた。 1909年になるとハンガーストライキがWSPUの抵抗手段の1つに加えられた。6月24日、下院の壁に権利の章典(1688年、1689年)の一部を書いたことでマリオン・ウォレス・ダンロップが逮捕された。刑務所の状況に怒ったダンロップは、ハンガーストライキを決行した。それに効果があったため、窓ガラスを割った罪で収監されていた14人の女性たちも同様に断食を始めた。WSPUのメンバーは、自分たちの収監に抗議して長期間のハンガーストライキを行ったことですぐにイギリス全土に知られるようになった。刑務所当局は、鼻や口からチューブを挿入して、強制的な栄養補給を行うこともしばしばあった。この苦痛を伴う方法(口からの栄養補給の場合、口を開かせるために鉄製の口枷を使用する必要があった)は、参政権論者や医療専門家から非難を浴びた。 こうした戦術はWSPUと、全国女性選挙権協会連合(NUWSS)に統合していたより穏健な組織との間に緊張をもたらした。連合のリーダーであるミリセント・フォーセットは、当初はWSPUのメンバーの勇気と大義への献身を賞賛していた。しかし1912年になると、彼女は、ハンガーストライキは単なる宣伝活動であり、戦闘的な活動家は「下院における参政権運動の成功を妨げる大きな障害」であると表明した。NUWSSはWSPUに破壊活動を支持しないよう要求したが成功せず、その結果、女性参政権団体のデモ行進への参加を拒否している。フォーセットの妹のエリザベス・ギャレット・アンダーソンも後に同じ理由でWSPUを脱退した。 報道での賛否は様々だった。多くのジャーナリストは、女性聴衆がパンクハーストの演説に肯定的だったことを指摘したが、一方で、彼女の過激な手法を非難する者もいた。デイリー・ニュース紙はもっと穏健な手法をとるよう彼女に促し、他の報道機関はWSPUのメンバーによる窓ガラス破壊を非難した。1906年、デイリー・メール紙の記者であるチャールズ・ハンズは戦闘的な女性たちを(通常の「サフラジスト」ではなく)「サフラジェット」という名前で呼んだ。パンクハーストとその仲間たちはこの言葉を自分たちに対するものと捉え、自分たちを穏健な組織と区別するためにそれを使うようになっていった。 20世紀初めの10年の後半は、パンクハーストにとって悲しみと孤独と絶え間ない仕事の時代だった。1907年、彼女はマンチェスターの自宅を売り払い、女性参政権のための演説やデモ行進をしながら各地を旅する遍歴生活を始めた。わずかな所持品をスーツケースに詰め、友人宅やホテルに滞在する生活だった。彼女は問題解決に奮闘し、人々を奮起させることに喜びを見出していたが、常に旅を続けることは子供たち、特にWSPU全体の取りまとめ役となっていたクリスタベルとの別離を意味した。1909年、パンクハーストがアメリカへの講演旅行を計画していた時、息子のヘンリーが脊髄の炎症で半身不随になった。病気の彼を残して出国することを彼女はためらったが、彼の治療費が必要であったし、この講演旅行で収益があがることは確実だった。講演旅行が首尾よく終わり帰国した彼女は、1910年1月5日、ヘンリーの最期に立ち会うことができた。5日後、彼女は息子を埋葬したのち、マンチェスターで5000人の前で演説をした。彼女を野次るために来た自由党支持者たちは、彼女が演説をする間、静かにしていたという。
※この「戦術の過激化」の解説は、「エメリン・パンクハースト」の解説の一部です。
「戦術の過激化」を含む「エメリン・パンクハースト」の記事については、「エメリン・パンクハースト」の概要を参照ください。
- 戦術の過激化のページへのリンク