強制労働と抑圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 15:34 UTC 版)
囚人キャンプは、1949年夏より、運河の計画ルートに沿って設けられ、施設はすぐに、全国から連れてこられた政治犯であふれた。最初に囚人が送られてから、新たに逮捕された人々が加わり、労働者は瞬く間に増加した。1950年までに、運河沿いにつくられた労働者キャンプは定員に達した。1950年だけで、1万5千人の囚人が収容されていたとされる。1953年までには、囚人の数が20,193人まで膨れ上がった。6万人に達していたとする説もある。また、期間全体を含めると、10万人や4万人の労働者が関わっていたとも伝えられる。イギリスの歴史家でニューヨーク大学の教授を務めるトニー・ジャットは、著書『戦後: 1945年以降のヨーロッパ史』のなかで、運河の建設を含め、様々な収容所や労働者キャンプに、当時100万人のルーマニア人が収容されていたとしている。 1950年代のルーマニア経済は、建設に対して貧弱であった。運河建設には粗悪な機械が持ち込まれたが、一部は既にソ連のヴォルガ・ドン運河建設で使用された後のもので、結局は原始的な作業に頼るほかなかった。ほとんどの作業はシャベルやつるはしを使って行われたが、ドブロジャ北部の岩がちな地質では困難を極めた。抑留者は通常、一般的な犯罪者によって管理される隊に配属され、部下に対して暴力を振るうことは奨励された。運河建設に並行して行われることになっていた地域の工業化は、結局実現しなかった。 囚人の健康、衛生、栄養管理のために割り当てられていた予算は、数年の間に激減した。食糧配給は最小限にとどめられ、囚人はネズミなどの小動物を捕まえたり、草を食べたりすることも多かった。 囚人は、集産化に抵抗を試みた農民、国民農民党、国民自由党、ルーマニア社会民主党の元活動家、ファシストの鉄衛団、シオニズムを唱えるユダヤ人、ルーマニア正教会やカトリック信者などで構成されていた。共産党当局は運河を「ルーマニアのブルジョワジーの墓場」と呼んでおり、最も重要な目的として、望ましくない社会階級を物理的に排除することがあった。 「ルーマニアにおける共産主義独裁政権研究のための大統領委員会」は、プロジェクトに関わった政治犯の犠牲者が、数千人と推定されると発表した。この数字は、1968年の公式報告書にある656人を大幅に上回るものである。ジャーナリストのアン・アップルバウムは、爆発、危険な設備、栄養失調、事故、結核などの病気、過労などの結果、20万人以上が死亡したと主張している。また、政治分析家のウラジミール・ソコルは、「10万人を大幅に超える」死者が出たとしている。そのため、このプロジェクトは「死の運河 (Canalul Morții)」として知られ、「数多くの人間の苦しみや死の水たまり」とも形容される。 同時に当局は、技術をもった労働者も雇っており、ほかの労働者からは厳重に隔離された。彼らは月給5,000レウという並外れた給与で集められた。同じ手法は、ルーマニア軍の若者を募るときにも用いられ、中流階級を中心に占められたことから「不健全な源泉」ともいわれた。このような労働者の数は、大きく変動している。1950年には13,200人、1951年には15,000人を数えたが、1952年の前半には7,000人にまで減少し、その年の終わりには再び12,500人まで戻っている。労働者向けの住宅など、増える労働者に対応する施設も計画されたが、完成することはなかった。環境の悪さはスタハノフ運動のプロパガンダによって無視され、作業は持ち前の170%にもなっていた。当局は、工事現場で、1万人にものぼる未熟な労働者たちへの訓練を実施していると主張した。 1953年に作業が中断された後も、運河の収容キャンプはもう1年存在し続け、囚人たちは北ドブロジャの同じような施設に移送されていった。運河沿いの施設は、1954年の中頃に閉鎖された。
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