巡洋戦艦比叡とは? わかりやすく解説

巡洋戦艦比叡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 09:34 UTC 版)

比叡 (戦艦)」の記事における「巡洋戦艦比叡」の解説

1906年明治39年10月イギリス画期的な戦艦いわゆる弩級戦艦ドレッドノート就役させると、日本海軍建造中だった薩摩型戦艦をはじめ、世界各国保有戦艦前弩級戦艦として一挙に旧式化した。1906年明治39年)、同じくイギリスインヴィンシブル級巡洋戦艦完成させると、日本海軍1905年明治38年)に就役させたばかり筑波型巡洋戦艦1907年明治40年就役鞍馬型巡洋戦艦旧式装甲巡洋艦烙印押された。斎藤実海軍大臣イギリス技術導入もかねてヴィッカース装甲巡洋艦発注同社弩級戦艦エリン基礎巡洋戦艦設計し金剛型巡洋戦艦1番艦金剛建造開始された。 仮称艦名卯号装甲巡洋艦1911年明治44年6月5日部内限り比叡(ひえい)と命名され、「金剛」より10ヶ月遅れた11月4日横須賀海軍工廠で「卯号装甲巡洋艦」として発注起工1912年大正元年11月21日比叡進水式には大正天皇臨席した。比叡は卯号巡洋戦艦として進水し命名式後に軍艦 比叡となった同日附で巡洋戦艦として登録。竣工引渡1914年大正3年8月4日である。佐世保鎮守府入籍した。なお巡洋戦艦金剛艦艇類別等級表に登録されたのは1913年大正2年8月16日だったため、書類上は伊吹比叡金剛という順番だった。 横須賀海軍工廠では建造先駆けて起工半年前からガントリークレーン延長作業開始し船体工事並行して進め進水半年前に完了したので装甲装着には支障がなかったが、進水第四ドック拡張工事完了していなかったため、呉に回航して入渠艦底清めてから公試実施した第一次世界大戦による日本の対ドイツ参戦により、比叡竣工1ヶ月で早速東シナ海方面出動している。イギリス日本金剛型巡洋戦艦4隻の欧州戦線投入求めたが、日本拒否した1916年大正5年6月1日英国海軍ドイツ海軍の間にユトランド沖海戦勃発しイギリス巡洋戦艦3隻(クイーン・メリーインヴィンシブルインディファティガブル)とドイツ巡洋戦艦1隻(リュッツオウ)が失われた巡洋戦艦脆さ露呈した海戦により世界各国戦艦水平防御強化対策行ったが、日本海軍ユトランド沖海戦戦訓踏まえた超弩級戦艦長門型戦艦筆頭とする八八艦隊戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)の建造とりかかっており、金剛型巡洋戦艦補強を行う予算はなかった。比叡各国思惑をよそに、1919年大正8年)の北支沿岸警備1920年大正9年)のロシア沿岸警備1922年大正11年)の青島大連警備、セント・ウラジミル警備1923年大正12年)の南洋警備支那沿岸警備関東大震災救援物資輸送任務など、諸任務投入されている。 1927年昭和2年7月30日附で高松宮宣仁親王昭和天皇弟宮海軍少尉)が比叡配属となる。あまりにも特別扱いされるため、親王比叡対す印象悪かった。『私は比叡油虫』と自嘲した程である。同時期、天皇戦艦山城」を御召艦として小笠原諸島南洋諸島巡航しており、親王比叡から山城派遣された。8月24日連合艦隊夜間演習中に美保関事件発生する比叡古鷹大破した軽巡洋艦那珂護衛して舞鶴移動した9月1日殉職者合同葬儀を実施12月1日宣仁親王中尉進級と共に装甲巡洋艦八雲乗組(副砲分隊士)に補職され、比叡離れた

※この「巡洋戦艦比叡」の解説は、「比叡 (戦艦)」の解説の一部です。
「巡洋戦艦比叡」を含む「比叡 (戦艦)」の記事については、「比叡 (戦艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「巡洋戦艦比叡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「巡洋戦艦比叡」の関連用語

巡洋戦艦比叡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



巡洋戦艦比叡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの比叡 (戦艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS