巡洋戦艦比叡
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1906年(明治39年)10月、イギリスが画期的な戦艦(いわゆる弩級戦艦)ドレッドノートを就役させると、日本海軍が建造中だった薩摩型戦艦をはじめ、世界各国の保有戦艦は前弩級戦艦として一挙に旧式化した。1906年(明治39年)、同じくイギリスがインヴィンシブル級巡洋戦艦を完成させると、日本海軍が1905年(明治38年)に就役させたばかりの筑波型巡洋戦艦や1907年(明治40年)就役の鞍馬型巡洋戦艦も旧式装甲巡洋艦の烙印を押された。斎藤実海軍大臣はイギリスの技術導入もかねてヴィッカースに装甲巡洋艦を発注、同社は弩級戦艦エリンを基礎に巡洋戦艦を設計し、金剛型巡洋戦艦1番艦金剛の建造が開始された。 仮称艦名卯号装甲巡洋艦は1911年(明治44年)6月5日、部内限りで比叡(ひえい)と命名され、「金剛」より10ヶ月遅れた11月4日、横須賀海軍工廠で「卯号装甲巡洋艦」として発注・起工。1912年(大正元年)11月21日の比叡進水式には大正天皇が臨席した。比叡は卯号巡洋戦艦として進水し、命名式後に軍艦 比叡となった。同日附で巡洋戦艦として登録。竣工・引渡は1914年(大正3年)8月4日である。佐世保鎮守府に入籍した。なお巡洋戦艦金剛が艦艇類別等級表に登録されたのは1913年(大正2年)8月16日だったため、書類上は伊吹―比叡―金剛という順番だった。 横須賀海軍工廠では建造に先駆けて起工の半年前からガントリークレーン延長作業を開始し、船体工事と並行して進め、進水の半年前に完了したので装甲の装着には支障がなかったが、進水後第四ドックの拡張工事が完了していなかったため、呉に回航して入渠し艦底を清めてから公試を実施した。 第一次世界大戦による日本の対ドイツ参戦により、比叡は竣工後1ヶ月で早速東シナ海方面へ出動している。イギリスは日本に金剛型巡洋戦艦4隻の欧州戦線投入を求めたが、日本は拒否した。1916年(大正5年)6月1日、英国海軍とドイツ海軍の間にユトランド沖海戦が勃発し、イギリスの巡洋戦艦3隻(クイーン・メリー、インヴィンシブル、インディファティガブル)とドイツ巡洋戦艦1隻(リュッツオウ)が失われた。巡洋戦艦の脆さが露呈した海戦により世界各国は戦艦の水平防御力強化対策を行ったが、日本海軍はユトランド沖海戦の戦訓を踏まえた超弩級戦艦・長門型戦艦を筆頭とする八八艦隊(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)の建造にとりかかっており、金剛型巡洋戦艦の補強を行う予算はなかった。比叡は各国の思惑をよそに、1919年(大正8年)の北支沿岸警備、1920年(大正9年)のロシア領沿岸警備、1922年(大正11年)の青島・大連警備、セント・ウラジミル警備、1923年(大正12年)の南洋警備・支那沿岸警備、関東大震災救援物資輸送任務など、諸任務に投入されている。 1927年(昭和2年)7月30日附で高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮、海軍少尉)が比叡配属となる。あまりにも特別扱いされるため、親王の比叡に対する印象は悪かった。『私は比叡の油虫』と自嘲した程である。同時期、天皇は戦艦「山城」を御召艦として小笠原諸島や南洋諸島を巡航しており、親王も比叡から山城に派遣された。8月24日、連合艦隊夜間演習中に美保関事件が発生する。比叡と古鷹は大破した軽巡洋艦那珂を護衛して舞鶴へ移動した。9月1日、殉職者合同葬儀を実施。12月1日、宣仁親王は中尉進級と共に装甲巡洋艦八雲乗組(副砲分隊士)に補職され、比叡を離れた。
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