島田道生(しまだどうせい 1849-1925)
琵琶湖疏水を担当した測量技師。
琵琶湖疏水は、京都の産業振興を目的に、水道用、工業用、灌漑用などの水を琵琶湖から京都に引くため明治18(1885)年6月に着工され、約5年の歳月をかけ明治23年 4月に完成した。
この疏水工事は、一人の個性的な指導者と二人の優秀な技術者によって建設が進められた。三人は、北垣国道と田辺朔郎、そして測量技師の嶋田道生である。
北垣国道は、明治4年開拓使出仕、高知県令、徳島県令を経て同14年に第三代京都府知事となり「琵琶湖疏水計画」を計画した。田辺は、工部大学校の卒論で「びわ湖疏水工事計画」を取り上げた。そして、同16年 5月に京都府に入庁し疏水工事の責任者となる。
一方、北垣の出生地に近い但馬国(現兵庫県)養父群八鹿村で生まれた島田道生は、北海道開拓使仮学校第一期生を経て、北垣が県令であった高知県に勤めていたが、同15年 6月から測量技師として京都府に勤める。北垣国道は、少なからぬ因縁を感じさせる二人の技術者を登用したのである。
島田は、それ以前から琵琶湖に湖面水位観測のための量水標設置を提言し、琵琶湖疏水基本構想の際の測量図作成にもあたっていた。そして、明治14年から16年にかけて大津市と京都三条橋付近に基線を設けて実施された三角測量と測量図の結果には、彼自身も満足しており、これによって運河掘削・開通に自信を深めた様子が、残された報告書から読みとれる。
この遠大な計画は、かつてない距離のトンネルを必要とすることや、堅固な地質であることから、「その命を請け、工事大体の成否いかんを測量に来られし内務省のお雇い外国人デ・レーケ氏の意見を聞くに、工事は成就すべし、なれど費額は百万円を要するならんと」(明治17年 2月29日「郵便報知」)として、オランダ人のお雇い技師デ・レーケに反対された。実際に工事は、計画を大幅に上回る経費が必要となり、計画は一時頓挫の危機に瀕したが、北垣の強い使命感と、田辺の高い技術と柔軟な頭脳、そして島田の正確な測量技術、そして彼らが立案した綿密な計画によって琵琶湖疎水は完成した。
とくに島田が主導して行った前記の測量は正確を極め、長等山トンネルの貫通時には高低差1.2mm、中心差7mmで結合したという。また、デ・レーケをして、「運河路線地図は、等高線を用いていて、高く評価できる」と語らせたほどの出来ばえであった。島田の高度な測量技術は、開拓使にあったとき、北海道の地質図を作成した開拓使お雇い技師ライマンと、開拓使測量長として基線測量にあたったデイから学んだ。
残された「琵琶湖疏水工事図誌」、「琵琶湖疏水要誌」などには、工事の詳細とともに、測量費が工事費全体の約1.1%であったこと、購入した主要測量機器はトランシット3台とレベル5台等であったことなどが記載されている。
この後、北垣は明治25年に北海道長官となり、開拓の基礎となる鉄道の建設と港湾の整備に情熱を注ぐ。その後を追うようにして、田辺は帝大教授の職を棄てて北海道庁鉄道部長として、島田もまた測量技師として北海道に赴く関係にあった。
琵琶湖疏水は、京都の産業振興を目的に、水道用、工業用、灌漑用などの水を琵琶湖から京都に引くため明治18(1885)年6月に着工され、約5年の歳月をかけ明治23年 4月に完成した。
この疏水工事は、一人の個性的な指導者と二人の優秀な技術者によって建設が進められた。三人は、北垣国道と田辺朔郎、そして測量技師の嶋田道生である。
北垣国道は、明治4年開拓使出仕、高知県令、徳島県令を経て同14年に第三代京都府知事となり「琵琶湖疏水計画」を計画した。田辺は、工部大学校の卒論で「びわ湖疏水工事計画」を取り上げた。そして、同16年 5月に京都府に入庁し疏水工事の責任者となる。
一方、北垣の出生地に近い但馬国(現兵庫県)養父群八鹿村で生まれた島田道生は、北海道開拓使仮学校第一期生を経て、北垣が県令であった高知県に勤めていたが、同15年 6月から測量技師として京都府に勤める。北垣国道は、少なからぬ因縁を感じさせる二人の技術者を登用したのである。
島田は、それ以前から琵琶湖に湖面水位観測のための量水標設置を提言し、琵琶湖疏水基本構想の際の測量図作成にもあたっていた。そして、明治14年から16年にかけて大津市と京都三条橋付近に基線を設けて実施された三角測量と測量図の結果には、彼自身も満足しており、これによって運河掘削・開通に自信を深めた様子が、残された報告書から読みとれる。
この遠大な計画は、かつてない距離のトンネルを必要とすることや、堅固な地質であることから、「その命を請け、工事大体の成否いかんを測量に来られし内務省のお雇い外国人デ・レーケ氏の意見を聞くに、工事は成就すべし、なれど費額は百万円を要するならんと」(明治17年 2月29日「郵便報知」)として、オランダ人のお雇い技師デ・レーケに反対された。実際に工事は、計画を大幅に上回る経費が必要となり、計画は一時頓挫の危機に瀕したが、北垣の強い使命感と、田辺の高い技術と柔軟な頭脳、そして島田の正確な測量技術、そして彼らが立案した綿密な計画によって琵琶湖疎水は完成した。
とくに島田が主導して行った前記の測量は正確を極め、長等山トンネルの貫通時には高低差1.2mm、中心差7mmで結合したという。また、デ・レーケをして、「運河路線地図は、等高線を用いていて、高く評価できる」と語らせたほどの出来ばえであった。島田の高度な測量技術は、開拓使にあったとき、北海道の地質図を作成した開拓使お雇い技師ライマンと、開拓使測量長として基線測量にあたったデイから学んだ。
残された「琵琶湖疏水工事図誌」、「琵琶湖疏水要誌」などには、工事の詳細とともに、測量費が工事費全体の約1.1%であったこと、購入した主要測量機器はトランシット3台とレベル5台等であったことなどが記載されている。
この後、北垣は明治25年に北海道長官となり、開拓の基礎となる鉄道の建設と港湾の整備に情熱を注ぐ。その後を追うようにして、田辺は帝大教授の職を棄てて北海道庁鉄道部長として、島田もまた測量技師として北海道に赴く関係にあった。
島田夫妻
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