岡山県南百万都市建設計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 06:01 UTC 版)
「岡山県南政令指定都市構想」の記事における「岡山県南百万都市建設計画」の解説
「昭和の大合併」の時期よりも前に提唱された当時の全国6大都市に次ぐ大都市形成と国による新産業都市の指定を念頭に置いた合併構想。1巡目の岡山国体開催前年の1961年に当時の岡山県知事・三木行治が提唱、岡山市、倉敷市、児島市の3市が中心となって33市町村の合併を目指したものである(県よりも先に地元山陽新聞社が昭和32年(1960年)に大岡山市の設計図という提唱記事を連載しはじめた)。合併が実現していれば人口は約90万人(計画では100万人超、実際は約130万人規模に達した)となり、岡山県民の約半分を占める大規模な市の誕生となっていた。もしそのまま、政府(自治省)との事務折衝が順調に進んだ場合、北九州市が政令市となった昭和38年(1963年)と同時期に全国で6番目もしくは7番目の政令市誕生となり、中国・四国地方では昭和55年(1980年)に移行した広島市より先に初の政令市となっていた可能性もあった。 昭和37年(1962年)4月、県南の33市町村で構成される「県南広域都市建設協議会」が発足し、各地で推進大会が開催され、国会でも報告されるなどして推進体制が整っていった。合併協議は順調に進み、合併協議会で合併期日は昭和38年(1963年)1月1日と定められ、その期日に向け全ての関係市町村議会で合併賛成の議決が行われた(岡山市においては昭和37年(1962年)12月17日、22対16の賛成多数で議決)。しかし社会党の革新市長だった岡山市長の寺田熊雄は、当初賛成だったが、倉敷市長の高橋勇雄とともに途中から合併反対に回った。さらに合併調印式当日にほとんどの首長らの署名が行われた段階で、倉敷市長が署名を行わないまま公印を持ち出し、東京へ一時失踪する事件が発生した。三木知事など岡山県側は犯罪行為に当たると県側の都合の良い判断で、警察への捜索依頼と告発も検討するなどしたが、高橋倉敷市長が東京に失踪したことで期日での合併が事実上できなくなった。これにより合併の中心的存在だった岡山市、倉敷市、児島市(現:倉敷市児島地域)が合併協議から脱退するに至り、これら3市の市長が合併を知事に申請しなかったことにより構想は時間切れで頓挫した。 その後、頓挫したこの計画に救済を買って出た旧自治省(現総務省)の事務次官・小林与三次により昭和38年1月10日から翌11日にかけて岡山市周辺と倉敷市周辺でそれぞれ合併を進めるという仲裁案を関係各市長を招き提示した。また、推進の中心であった三木知事が翌年の昭和39年に急死し、計画の発起人が不在になり大同合併の早期実現が更に困難となった。時を同じくして倉敷市では合併反対を唱える市民グループによる署名により市議会のリコールが成立、その後の選挙により合併賛成の議員の多くが落選するなどしたが、一方の岡山市では同じ年に「大岡山市建設」とあくまで政令指定都市実現を目指す岡崎平夫市政が誕生した。皮肉にも結果的には岡山市の政令指定都市へ向けた歩みは、三木知事が提唱した県南100万都市構想頓挫がきっかけとなって始まるに至った。また旧自治省(現総務省)仲裁案のとおり岡山市とその周辺(備前ブロック)、倉敷市とその周辺(備中ブロック)では昭和40年代から平成に至るまで各ブロック毎に順次合併が進み、岡山市においては政令指定都市に移行した。
※この「岡山県南百万都市建設計画」の解説は、「岡山県南政令指定都市構想」の解説の一部です。
「岡山県南百万都市建設計画」を含む「岡山県南政令指定都市構想」の記事については、「岡山県南政令指定都市構想」の概要を参照ください。
- 岡山県南百万都市建設計画のページへのリンク