小千谷市立若栃小学校
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真人町山間地区では一番最初に開校され、一番最後に閉校した長い歴史を持つ小学校である。1874年(明治7年)に第十二大区一小区仁田小学校の最寄組合より脱し、第六中学区第一小学校若橡校として正応寺を借館し、開校創立式を挙行した。創立当時は、修業年限が上級科・下級科通して8年であった。1909年(明治42年)、中魚沼郡真人村立若栃小学校に改称され、義務年限6年となる。1940年(昭和15年)には、校歌が制定され、市野沢集落出身の渡辺正が歌詞を提供した。。1929年(昭和4年)には校旗が制定され、1964年(昭和39年)の創立90周年記念式の際に新調、その時に校章もあわせて制定された。1955年(昭和30年)、真人村が小千谷市と合併した際、小千谷小学校市立若栃小学校と改称される。 1975年(昭和50年)には、学校給食の炊事ができないほどの水不足に悩み、生徒達は水筒を持参した。元々、若栃小学校は夏になると小規模水道が原因で水不足に悩まされていた。また、同小学校は食育に力を入れていて、同校の児童は勤労学習と情操教育として地元民から土地を借り全学年児童がサツマイモや落花生、餅米などの農作物を耕作していた。収穫の際は、地元民を招き、収穫祭を開催したり餅米は特別養護老人ホーム“小栗田の里”に贈った。これらの社会奉仕が評価され、1986年(昭和61年)3月には社団法人「小さな親切」運動本部より実行章の表彰を受けた。他にも、1988年(昭和63年)県教育委員会の学校給食優良学校の表彰の際に準優良校として選ばれた。同校は市内でも早期に米飯給食を取り入れ、週5回の給食を米飯に切り替えておりその米も児童が定期的に自宅から持ち寄るなど、地産地消を進めていた。また、上記にある児童の農作物の耕作や四季に合わせて外で給食を食べる“オープン給食”など多彩な活動が表彰された理由であった。 1994年(平成6年)以降、いくつかの災害による被害の記録が残っており、同年11月には若栃小学校裏手の崖で土砂崩れが発生し、下方の池に直撃した後に同校グラウンドに土砂が流れ込んだ。校舎に破損はなかったが、全児童が早退する事態となった。1995年(平成7年)は豪雨のため「間府」決壊し臨時休校。2004年(平成16年)7月18日午前0時半には、豪雨災害により、校舎後ろ400メートル上に位置しているため池が決壊。約3000トンの土砂が斜面を下りグラウンドを泥で埋めた。しかし、校舎に損壊はなかった。2004年(平成16年)に発生した新潟県中越大地震の際は、グラウンド・校舎に被害を受けた。中越震災後の10月23日から11月7日までは避難所として利用された。 2005年(平成17年)3月、過疎化により閉校。3月5日に閉校記念式典・お別れ会が催され約200名が参列した。また、前年11月には児童数と同じ16本の桜の苗木が、グラウンドと校区に記念植樹された。そして、2005年(平成17年)4月小千谷市立吉谷小学校と統合し、若栃小学校に通っていた児童の登下校は路線バスを利用することになった。 市の統合案と地元民の意見の相違 閉校の際、元々市教育委員会は小学校再編構想として「若栃小学校は岩沢小学校へ統合」との案を提示していたが、地元民がすぐに反応し、若栃小学校統合対策委員会を結成し「統合先は吉谷小学校」を地元意見としてまとめ、要望書を提出した。「吉谷小学校への統合」を希望した理由としては、(1)岩沢小学校より吉谷小学校の方が近いことと (2)保護者の勤務先が市街地であることから、送迎の利便性が吉谷小学校の方が高いこと (3)未就学児が吉谷保育園に通っていること (4)路線バスが若栃校区ー吉谷校区を通っていることが挙げられた。特に(4)に関しては、当時の6年生までは若栃へき地保育園に通っていたが、5年生からは若栃へき地保育園の閉園に伴い吉谷保育園に通っており、顔馴染みの児童が多く当時行われていた吉谷小学校・若栃小学校合同で行われた親善スキー大会でも仲が良い姿があったからである。
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