学術的なキャリア
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「ロルフ・ネヴァンリンナ」の記事における「学術的なキャリア」の解説
ネヴァンリンナが博士号を取得した1919年当時、大学にはポストの空きがなかったため、彼は学校の教師になった。兄のフリチオフは1918年に博士号を取得していたが、同様に大学での職を得ることができず、保険会社で保険数理士として働いていた。フリチオフはロルフを同じ会社に誘い、ネヴァンリンナは保険会社と学校の教師として働いた。1922年にヘルシンキ大学の数学の講師(ドーセント(英語版))に任命された。それ以前に、エドムント・ランダウからドイツのゲッティンゲン大学での職を斡旋されたが、ドイツに移り住む必要があるため、それを断った。 数学の講師に任命された後、保険会社の仕事は辞めたが、1926年に大学の正教授の職を得るまでは学校の教師を辞めなかった。後にネヴァンリンナ理論と呼ばれる理論を彼が生み出したのは、大学講師と学校教師を掛け持ちしている1922年から1925年の間のことだった。 1948年、新たに設立されたフィンランド・アカデミー(英語版)の常任理事に就任した。 ロルフ・ネヴァンリンナの最も重要な数学における業績は、有理型関数の値の分布理論であるネヴァンリンナ理論である。この理論の起源は、1879年のエミール・ピカールの定理にさかのぼる。ピカールの定理は、定数以外の整関数の値域が高々唯一の点を除く複素平面全体に広がることを主張するものである。1920年代初頭に、ロルフ・ネヴァンリンナは、兄のフリチオフとの共同研究の一環として、この定理を有理型関数に拡張した。ネヴァンリンナ理論は、2つの主要定理からなる。第1主要定理は、ある値が平均よりも少ない頻度で仮定されている場合、関数は平均よりも多くの頻度でその値に近づくということを述べている。第2主要定理は、第1主要定理よりも難しく、関数が平均よりも少ない値を仮定している場合、関数は平均よりもその値に近い値を仮定することが比較的少ないと述べている。 ロルフ・ネヴァンリンナの論文Zur Theorie der meromorphen Funktionen(有理型関数の理論について)は、1925年に学術誌『Acta Mathematica』に掲載された。ヘルマン・ワイルはこの論文を「今世紀(20世紀)における数少ない数学的偉業のうちの一つ」と呼んだ。ネヴァンリンナは、Le théoreme de Picard – Borel et la théorie des fonctions méromorphes(ピカール=ボレルの定理と有理型関数の理論、1929年)とEindeutige analytische Funktionen(明確な解析関数、1936年)の2冊の本でこの理論を詳しく説明している。 ネヴァンリンナ理論は、ネヴァンリンナクラスと呼ばれる関数のクラス、つまり「境界型」の関数にも触れている。 冬戦争(第1次ソ連・フィンランド戦争)が勃発した1939年、ネヴァンリンナはフィンランド陸軍の弾道局に招聘され、射表の改良に協力した。これらの表は、砲兵大将ヴィルホ・ネノネンが開発した計算技術に基づいていたが、ネヴァンリンナはより高速に計算できる新しい手法を考案した。その功績が認められて、彼は自由十字勲章(英語版)二等勲章を授与され、生涯これを大事にしていた。 ロルフ・ネヴァンリンナはその後、リーマン面の理論(1953年に単行本Uniformisierungを刊行)や関数解析学(1959年に弟のフリチオフとの共著でAbsolute analysisを刊行)などに興味を持つようになった。また、フィンランド語による幾何学の基礎についての本や、相対性理論についての大衆向け解説書も執筆している。複素解析の要素に関するフィンランド語の教科書Funktioteoria(1963年)はヴェイッコ・パータロとの共著で、ドイツ語、英語、ロシア語に翻訳されている。 ロルフ・ネヴァンリンナは少なくとも28人の博士論文を指導した。ネヴァンリンナの最初の、かつ最も有名な博士課程指導学生はラース・ヴァレリアン・アールフォルスで、第1回フィールズ賞の受賞者の1人である。アールフォルスがフィールズ賞を受賞した研究(現在はダンジョワ=カーレマン=アールフォルスの定理(英語版)として知られているダンジョワ予想の証明)は、ネヴァンリンナの研究に強く基づいていた。 ネヴァンリンナは、ハイデルベルク大学、ブカレスト大学、ギーセン大学、ベルリン自由大学、グラスゴー大学、ウプサラ大学、イスタンブール大学、ユヴァスキュラ大学などから名誉学位を授与されている。また、ロンドン数学会やハンガリー科学アカデミーなど、いくつかの学会の名誉会員だった。 小惑星ネヴァンリンナ(小惑星番号1679)は、彼に因んで命名されたものである。
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学術的なキャリア
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「チャールズ・マリク」の記事における「学術的なキャリア」の解説
マリクは1960年に学問の世界に復帰した。ハーバード大学、アメリカン大学、ダートマス大学、ノートルダム大学など、アメリカの多くの大学で教授職に就き、人権問題などについて講義を行った。アメリカ・カトリック大学(英語版)で1981年から1983年までジャック・マリタン特別教授(道徳・政治哲学)を務めたのが最後の公職だった。また、1962年から1976年までベイルート・アメリカン大学哲学科で大学院研究科長を務めた。
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