学術界の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:17 UTC 版)
第五福竜丸の帰港以降、静岡大学の塩川孝信教授の他、理化学研究所の放射線研究室(当時は山崎研)主宰者の山崎文男博士や東京大学医学部放射線科の中泉正徳教授が、第五福竜丸の残留放射線を精査、報告した。 水産庁は5月15日から7月4日にかけ、アメリカ大使館の妨害を下して、放射線専門家やジャーナリストを乗せた水産講習所の練習船の俊鶻丸をビキニ周辺海域に派遣し、海面や魚類の残留放射能調査を行った。 また同年11月15日から5日間、東京の上野において、米国側6名、日本側14名の放射線専門家による「日米放射能会議」が開催され、放射線の測定、除染やRI利用に関し議論が行われた。この会議を境にして放射能雨や汚染マグロなどによる社会不安は急速に収束していったという。翌年、国際連合において原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の設立が決議され、当時は国連加盟国ではなかった日本もメンバーとなった。 放射線生物物理学の西脇安(当時大阪市立大学教授)は、焼津港で「原爆マグロ」の放射線調査を行ったのち欧州各国で講演を行うなどして事件を報告し、のちのラッセル=アインシュタイン宣言、パグウォッシュ会議のきっかけを作り、またその他の放射線防護関連機関の設立を推進した。 その後、死の灰による健康被害・環境破壊への国際的な批判も高まり、1962年のキューバ危機では核戦争寸前の状態が生じたことから、1963年には、地下を除く大気圏内、宇宙空間および水中における核爆発を伴う実験を禁止する部分的核実験禁止条約がモスクワで調印され、同年10月に発効した。
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