国際的な成長・加盟店との対立
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「ケンタッキーフライドチキンの歴史」の記事における「国際的な成長・加盟店との対立」の解説
1989年8月、クラナーは1976年から変更されていなかったアメリカの加盟店向けのフランチャイズ契約を改定することを提案した。この改定では、ペプシコが業績不振の加盟店を買収することが可能になり、既存の加盟店が新規加盟店との競争から保護されなくなった上、ペプシコにロイヤルティー料を値上げする権利が与えられることとなっていた。加盟店側はこの新しい契約に反発し、訴訟を起こすことで対抗した。この争いは、1996年に新社長のデヴィッド・C・ノヴァクが、加盟店側に譲歩して新契約の内容の一部を取り下げるまで解決を見なかった。ペプシコは加盟店に対して横暴に振る舞っていると非難された。ペプシコは加盟店がKFCの成長の足かせとなっていると考えていたが、加盟店側は会社が不熱心なオーナーによって経営されていた時期に、KFCの支えとなっていたのは自分たちであると確信していた。 クラナーは4200万ドルを投じて全世界におけるKFC事業の再編をはかった。クラナーはさらに、追加の5000万ドルを費やして店舗の改装を実施した上、2000万ドルを投じて、店舗のレジとキッチン、ドライブスルー窓口、店長室、そしてKFC本社をリンクする新たなコンピュータシステムを構築した。クラナーの経営下で、KFCチェーンは未開拓の領域に進出していった。その最初の例は、デイトン (オハイオ州)のゼネラルモーターズの組み立て工場に出店した広さ150平方フィート(約14平方メートル)のキオスク(メニューは一部に限定)だった。1986年から1991年までの期間で、KFCチェーンは新たに2000店舗を加え、総店舗数は8500に達した。同じ期間で売上高は35億ドルから62億ドルへと成長した。アメリカ国民の健康志向が強まるにつれ、KFCチェーンはグリルドチキンの台頭に対抗しなければならなくなった。メキシコ風グリルドチキンに特化して成長中のレストランチェーン「エル・ポロ・ロコ(英語版)」と、グリルドチキンのハンバーガーである「BKブロイラー」をメニューに加えたばかりのバーガーキングがKFCの競争相手として浮上していた。商品開発の遅れ、狭いキッチン、進行中の加盟店との契約論争などの事情により、KFCチェーンは独自のグリルドチキン商品を展開することができなかった。 1991年3月、会社の正式名称が「KFC」に変更された。(この変更の前からすでに、KFCというイニシャリズムはチェーンの名称として広く知られていた) この名称変更は、ブランドコンサルタント企業である「シェクター・グループ」のアドバイスのもとで行われた。調査が明らかにしたところでは、80パーセントの顧客が「KFC」のイニシャリズムでケンタッキーフライドチキンを連想していた。広報担当者は、KFCという名称が揚げ物一辺倒から多様化を遂げつつあるメニューに、より適合したものであると述べた。アメリカKFC社長のカイル・クレイグは、この変更が「フライド」という言葉が暗示する不健康なイメージから会社を遠ざけるための試みであることを認めた。1994年、『Nation's Restaurant News(英語版)』のなかでミルフォード・プルーイットは、この変更を「巧妙かつタイミングの良い変化」であると称賛した。その一方で、『Advertising Age(英語版)』の2005年の社説は次のように述べた。「このチェーンが自らの由緒ある名前を投げ捨て、『フライド』という言葉から遠ざかったのは悪い発想で、損害をもたらした。はっきりとしたブランドがぼやけたものに変わってしまった。」 1990年代初頭には、チェーン全体で展開されたメジャーな商品の多くがヒットを記録した。スパイシーな「ホットウイングス」(1990年発売)や、「ポップコーンチキン」(1992年発売)がそこに含まれ、アメリカ国外では、チキンフィレを使ったスパイシーなハンバーガーの「ジンガー」(1993年発売)が成功を収めた。1993年には、ロティサリーチキン風の「カーネルズ・ロティサリー・ゴールド」がアメリカのKFC店舗の30パーセントで発売され、マーケティングに1億ドルが投じられたが、この商品の売り上げは芳しくなかった。健康志向の強い顧客をターゲットとして皮なしのチキンも発売されたが、その食感は顧客に好まれず、失敗した。この製品の失敗は諸経費の増大を招き、1991年の営業利益が37パーセント減少することにつながった。 1991年6月、シンガポールの店舗でKFC史上初となる朝食メニューの販売が開始された。朝食メニューにはチキン、オムレツ、スクランブルエッグが含まれており、「カーネルズ・カントリー・ブレックファスト」の名前の下で販売された。シンガポールが選ばれた背景には、この国の朝食マーケットが成長を見せていたという事情があった。 KFCはアメリカ市場で苦戦を強いられ、ペプシコのレストラン部門でもっとも貧弱な事業となっていたが、その一方でアメリカ以外の市場では急成長を遂げていた。なかでも、日本のKFCは特筆すべき成功を収めていた。1992年になる頃には、KFCの売上高の半分近くがアメリカ国外の市場で稼ぎ出されていた。1993年までに、アジア太平洋地域における売り上げはKFC全体の売上高の22パーセントを占めるほどになった。ジョン・クラナーは「我々は、アジアにほとんど無限に存在する成長のチャンスに目を向けている」と発表した。1993年までにKFCは、韓国、中国、タイ、マレーシア、インドネシアにおいて第1位の欧米ファストフードフードチェーンとなっており、ほかのほとんどのアジア諸国(日本、シンガポールを含む)でもマクドナルドに次ぐ第2位のチェーンとなっていた。アメリカ国外における事業の繁栄は、その地域ごとのKFC経営者が、ルイビルのKFC本社からの指示を無視、さらには反抗すら辞さなかった結果としてもたらされていた。
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