国際汽船の設立と苦難
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大正8年7月1日、国際汽船が設立され、神戸市海岸通にある川崎汽船本社内に事務所が設けられて8月1日から営業を開始した。初代の代表取締役社長には、川崎汽船社長で川崎正蔵の養嗣子である川崎芳太郎が就任し、取締役会長には金子が就任した。社名の「国際」は「大いに海外に雄飛しようとする企図」で命名され、社旗はロイド100A1(英語版)の資格を意味する「A1」を染め抜いたものだった。設立に際し、船舶出資分に関しては、債務に悩み株式交付に不安を覚える一部の出資船主に配慮して、船価350円を現物出資と現金払いで折半する形がとられ、現金払いのうちの125円は日本興業銀行、第一銀行、十五銀行および浪華銀行が発行する社債手取金、50円は大蔵省預金部からの融資資金でそれぞれまかない、大蔵省からの融資額は2500万円に達した。あくまで一角とはいえ政府からの出資をあおいだという事情から、一応は国策会社として見られていた。その他の株主に関しては、川崎汽船の記録では以下のとおりである。 国際汽船発起人提供船舶および引受株数引受株主(代表する会社)船舶トン数引受株数橋本喜造(橋本汽船)25,400 101,600 渡邊嘉一(石川島造船所)5,000 20,000 松方幸次郎(川崎造船所)275,100 1,027,640 川崎芳太郎(川崎汽船) 72,760 金子直吉(鈴木商店)84,400 337,600 中山説太郎(日本汽船)17,300 69,200 内田信也(横浜鉄工所)17,800 71,200 山下亀三郎(浦賀船渠)22,500 90,000 浅野総一郎(浅野造船所)52,500 210,000 約500,000 2,000,000 川崎造船所および川崎汽船からの約27万総トンもの船舶をはじめ、多くの社外船主からの提供を受けた国際汽船は、創立から1年経った1920年(大正9年)には60隻・32万4000総トンもの船隊を揃え、日本郵船の103隻・49万4000総トン、大阪商船の133隻・40万総トンに続く日本第3位の船主に浮上した。しかし、第一次世界大戦終結後の不況が、国際汽船の経営に致命的な打撃をもたらした。もともと予想営業収入を高めに設定しており、一切の債権を償還しても余裕があると予想していたが、実際には用船料の暴落と船価の乱高下により8000万円を越える負債を抱え込んでしまった。早くも日本郵船、大阪商船および東洋汽船との合同話が浮上し、債権の整理も政府からの助成もままならず、おまけに出方次第で日本周辺の船舶市場に影響を与えるであろう日本第3位の大船腹を抱え込んで、国際汽船は二進も三進もいかなくなるかに見えた。 大正9年、初代社長の川崎芳太郎は病気のため引退し、松方が川崎造船所社長のまま国際汽船と川崎汽船の社長も兼任することとなった。松方は3社合計で103隻・79万総トンの巨大船腹の生かし方について思うところがあった。このころ、ヨーロッパ方面での船腹需要が急増し、この様子を見た松方は手中にあった大船腹をヨーロッパに回すことを決断する。1921年(大正10年)5月、松方は鈴木商店を総代理店とする「Kライン」をロンドンにおいて発足させる。「Kライン」は大西洋を舞台にヨーロッパ、南北アメリカ、オーストラリアおよび極東の間に、日本を介さないいわゆる「三国間航路」を開設し、定期航路と不定期航路双方のメリットを生かす臨機応変な配船を行った。後年には日本への航路も開設したが、これは所属船の修理回航を兼ねてのものだった。しかし、「Kライン」がいくら欧米で実績をあげても国際汽船の経営そのものにはあまり反映されず、事態は苦しくなるばかりであった。1923年(大正12年)に資本金を1億円から8千万円に減資し、1925年(大正14年)には金利も軽減されて経営改善の兆しが見えるようになったが、その間に勢力を伸ばしてきた債権団の指導によって、国際汽船の国策会社としての一面は大幅に後退した。
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