国際公務員として
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タフツ大学フレッチャースクール博士課程在学中の1957年に、日本人として初めて国連職員に採用された。もともと米国留学は研究者を志してのものであり、国連勤務も一時的なものと考えていたというが、日本人国連職員の草分けとしてその後40年を国連で過ごすことになる。 1974年、日本国の外務省に転じ、国際連合日本政府代表部参事官、公使、大使を歴任した(~79年)。1979年、国連に復帰し、事務次長(広報担当、軍縮担当、人道問題担当)に就任。1992年には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表に就任、カンボジア和平につとめた。 1994年には当時進行中であったユーゴスラビア紛争収拾のため旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に就任する。文官として国際連合保護軍(UNPROFOR)の最高指揮権を附与されていたが、ボスニアにおいて攻勢を強めるセルビア人勢力への対応について指導力・決断力を発揮し得なかった。これについてアメリカ人ジャーナリストのデービッド・ローデは明石ら当時のNATO軍指導部の対応が結果的にスレブレニツァの虐殺事件発生を招いたとして批判した。元アメリカ国連大使ジーン・カークパトリックは2003年6月、ワシントンで行われたシンクタンクのAEI主催の講演会で「ヤスシ・アカシという人物は災禍だった。国連の歴史にも特筆される大災禍だった。アカシのためにボスニアでの平和維持活動(PKO)は歴史上でも最も効率の悪い軍事行動となってしまったのだ」と批判した。 ただし、明石自身は自分だけの責任ではないと反論している。国連保護軍は当初オランダ軍中心の700名程度しか動員されておらず、その後の増派要請3万人を大きく下回る7,600人しか安保理で認められなかった。スレブレニツァの虐殺に際して空爆が即時に実行されなかった点については、現場からのNATOへの空爆要請が明石まで届くのが遅れていたのであって、自身は10分以内に空爆を承認していたと回想している。空爆が小規模にとどまったのも、空爆開始から1時間後にオランダ国防省から中止要請が入ったためであったという。明石によれば、明石とともに空爆実行の判断をしていたベルナルド・ジャンビエ国連保護軍総司令官(フランス軍中将)も、空爆承認の是非について同じ認識だったという。明石は自身はスケープゴートにされたのだと後に述べている。 1999年、広島市立大学付属広島平和研究所所長に就任するも即時退任。4月には自民党・公明党の支持を受けて東京都知事選挙に出馬したものの、石原慎太郎に大差で敗れ当選には至らなかった。 2000年には、杉原千畝生誕100年記念事業委員会の委員長として活躍。杉原千畝の国際社会への紹介と顕彰に努めたことでも知られる。 2001年には、群馬県立女子大学外国語研究所所長に就任。また、同研究所が主催する高校生のグローバル人材育成事業「明石塾」の塾長も務めている。 2006年より、スリランカ問題担当の日本政府代表としてスリランカでの同国政府とLTTEとの和平構築、復興にあたっている。また、2007年より、国際協力NGOジョイセフ(家族計画国際協力財団)の会長に就任している。 2011年より、中国と日本の関係改善を目指すフォーラム「東京-北京フォーラム」の日本側実行委員長に就任。
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