国際公務員としてのキャリアとは? わかりやすく解説

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国際公務員としてのキャリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:01 UTC 版)

弓削昭子」の記事における「国際公務員としてのキャリア」の解説

大学卒業後、日本に帰国当時修士号要件としていなかったJPO応募し1976年国連開発計画 (UNDP) から国際公務員としてのキャリアをスタートさせる同機関のタイバンコク事務所常駐副代表補佐務めた。まもなく、日本政府にフィールド・レベルでの仕事希望しJPO間中1997年国連人口基金 (UNFPA) に異動同機関のタイバンコク事務所、代表補佐務める。 JPO終わった1978年国連開発計画本部アジア太平洋局からのオファーがあり、国連開発計画(UNDP)ニューヨーク本部アジア太平洋局、プログラム支援部プログラム・オフィサー務める。同時にニューヨーク大学大学院入学し修士号取得1980年から3年間、国連開発計画ニューヨーク本部アジア太平洋局、東アジア部、中国フィリピン担当エリア・オフィサーを務める。 1983年、夫とともに日本に帰国したことに伴い国際公務員休職同年から始めた社団法人海外コンサルティング企業協会 (ECFA) でのプロジェクト研究員経て1986年より財団法人工業開発研究所研究員日本インドネシア科学技術フォーラム事務局コーディネーター務める。 フリージャーナリストとなったとともに1988年からバンコク行き国連開発計画タイバンコク事務所常駐代表補佐務める。1990年から国連開発計画インドネシアジャカルタ事務所常駐副代表1994年から1999年には、国連開発計画ブータン王国ティンプー事務所常駐代表、国連常駐調整官を務める。キャリアの中では、ブータン王国で最も長いフィールド経験を持つ。 1999年より、夫の親の世話機にして、日本に帰国当時新設されフェリス女学院大学国際交流学部教授務める。著名な教え子として、特定非営利活動法人かものはしプロジェクト創立者一人である村田早耶香がいる。3年後国連開発計画駐日事務所の代表のポスト空いたのでアプライ2002年から2006年国連開発計画駐日事務所駐日代表務める。 その後当時コフィー・アナン国際連合事務総長によって、女性としては初の国連開発計画ニューヨーク本部管理局長に任命され2012年まで務める。最終的には、ヘレン・クラーク総裁総裁特別顧問駐日代表として、国連開発計画駐日事務所戻りTICADV経験2013年までそのポスト務めた

※この「国際公務員としてのキャリア」の解説は、「弓削昭子」の解説の一部です。
「国際公務員としてのキャリア」を含む「弓削昭子」の記事については、「弓削昭子」の概要を参照ください。

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