国際公務員としてのキャリア
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「弓削昭子」の記事における「国際公務員としてのキャリア」の解説
大学卒業後、日本に帰国。当時、修士号を要件としていなかったJPOに応募し、1976年国連開発計画 (UNDP) から国際公務員としてのキャリアをスタートさせる。同機関のタイ、バンコク事務所で常駐副代表補佐を務めた。まもなく、日本政府にフィールド・レベルでの仕事を希望し、JPO期間中の1997年に国連人口基金 (UNFPA) に異動。同機関のタイ、バンコク事務所、代表補佐を務める。 JPOが終わった1978年、国連開発計画本部のアジア太平洋局からのオファーがあり、国連開発計画(UNDP)ニューヨーク本部、アジア太平洋局、プログラム支援部、プログラム・オフィサーを務める。同時に、ニューヨーク大学大学院に入学し、修士号を取得。1980年から3年間、国連開発計画ニューヨーク本部、アジア太平洋局、東アジア部、中国・フィリピン担当エリア・オフィサーを務める。 1983年、夫とともに日本に帰国したことに伴い、国際公務員を休職。同年から始めた社団法人海外コンサルティング企業協会 (ECFA) でのプロジェクト研究員を経て、 1986年より財団法人工業開発研究所研究員、日本・インドネシア科学技術フォーラム事務局コーディネーターを務める。 フリージャーナリストとなった夫とともに、1988年からバンコクへ行き、国連開発計画タイ、バンコク事務所常駐代表補佐を務める。1990年から国連開発計画インドネシア、ジャカルタ事務所常駐副代表、1994年から1999年には、国連開発計画ブータン王国、ティンプー事務所常駐代表、国連常駐調整官を務める。キャリアの中では、ブータン王国で最も長いフィールド経験を持つ。 1999年より、夫の親の世話を機にして、日本に帰国。当時新設されたフェリス女学院大学国際交流学部で教授を務める。著名な教え子として、特定非営利活動法人かものはしプロジェクトの創立者の一人である村田早耶香がいる。3年後、国連開発計画の駐日事務所の代表のポストが空いたのでアプライ。2002年から2006年、国連開発計画駐日事務所、駐日代表を務める。 その後、当時のコフィー・アナン国際連合事務総長によって、女性としては初の国連開発計画ニューヨーク本部、管理局長に任命され、2012年まで務める。最終的には、ヘレン・クラーク総裁の総裁特別顧問、駐日代表として、国連開発計画駐日事務所に戻り、TICADVを経験、2013年までそのポストを務めた。
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