各大名の上洛とは? わかりやすく解説

各大名の上洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 14:29 UTC 版)

上洛」の記事における「各大名の上洛」の解説

大内義興の上洛の大義名分は、旧秩序回復目的、すなわち足利幕府支配回復させることにあった[要出典]。だが、大内氏場合、それが完成する前に尼子氏ら反大内勢力挙兵阻まれ領国への帰還余儀なくされた。六角定頼場合は、領国京都の隣の近江であるものの大内義興同様の名目入京しており、幕政にも口入の形で関与しているところも義興と共通している。だが、定頼の没後六角氏浅井氏反抗など国内問題追われ三好長慶の上洛を阻止できずに衰退していく。 それに対し天文18年1549年)の三好長慶の上洛になると様相変わってしまう。細川晴元堺公方足利義維将軍位着けずに足利義晴そのまま将軍に擁いたが、三好長慶堺公方足利義維足利義輝義晴の子)も両方奉じず、何年も京を支配したまた、官位従四位下、修理大夫幕府役職相伴衆三好家家格では考えられないような地位与えられていた。なお、足利義輝官位は、従四位征夷大将軍その後従三位であったまた、永禄8年1565年)に足利義輝殺害したにも関わらず三好三人衆半年以上、足利義栄(義維の子)を擁立しなかった。一方織田信長の上洛従来通り将軍候補である足利義昭奉じて行われた。しかし、織田信長天正元年1573年)には足利義昭京都から追放しており、しかもその翌年には、織田信長官位従三位参議達し室町幕府支配力権威を必要としない政権となっていた。 なお、織田信長上洛によって天下を取る一歩手前までいった事から、江戸時代軍記物等では、全ての戦国大名上洛目指したかのような解釈広がった例えば、駿河国今川義元永禄4年1560年)に尾張遠征し桶狭間の戦い戦死したが、小瀬甫庵の『信長記』等の軍記物では上洛目的であったとされた。一方足利義昭呼びかけにより、甲斐国武田信玄元亀年間大規模な美濃三河遠江方面への軍事的侵攻である西上作戦行いまた、越後の上謙信や、安芸毛利輝元織田信長敵対したが、もし入京ていれば将軍奉じる形式の上洛に当てはまっていた。なお、天正10年1582年)の本能寺の変では、明智光秀足利義昭奉じていたという説もある。 さらには全ての戦国大名天下を取る事を狙っていた訳ではない毛利元就自分の子孫は天下を望むべからず遺言した事は有名な話である。後北条氏初代伊勢宗端(北条早雲)が室町幕府政所執事務めた伊勢氏分家出身であったが、二代目北条氏綱以降鎌倉幕府の執権北条氏後継称して関東での勢力圏拡大には熱心であったが、天下取り意図見えなかった。[要出典] また、上洛がすなわち天下取り必須条件だったかのように言われる事もあるが、これにも異論がある。天下を取る可能性があった戦国大名として名前があがる伊達政宗九州島津氏、あるいは最終的に天下を取るになった徳川家康も、室町将軍擁して上洛した事は一度も無い。[要出典]

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