各大名の上洛
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大内義興の上洛の大義名分は、旧秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させることにあった[要出典]。だが、大内氏の場合、それが完成する前に尼子氏ら反大内勢力の挙兵に阻まれて領国への帰還を余儀なくされた。六角定頼の場合は、領国が京都の隣の近江であるものの大内義興と同様の名目で入京しており、幕政にも口入の形で関与しているところも義興と共通している。だが、定頼の没後の六角氏は浅井氏の反抗など国内問題に追われ、三好長慶の上洛を阻止できずに衰退していく。 それに対し天文18年(1549年)の三好長慶の上洛になると様相が変わってしまう。細川晴元は堺公方の足利義維を将軍位に着けずに足利義晴をそのまま将軍に擁いたが、三好長慶は堺公方の足利義維も足利義輝(義晴の子)も両方奉じず、何年も京を支配した。また、官位は従四位下、修理大夫、幕府の役職は相伴衆と三好家の家格では考えられないような地位が与えられていた。なお、足利義輝の官位は、従四位下征夷大将軍、その後、従三位であった。また、永禄8年(1565年)に足利義輝を殺害したにも関わらず三好三人衆は半年以上、足利義栄(義維の子)を擁立しなかった。一方、織田信長の上洛は従来通り将軍候補である足利義昭を奉じて行われた。しかし、織田信長は天正元年(1573年)には足利義昭を京都から追放しており、しかもその翌年には、織田信長の官位は従三位参議に達し、室町幕府の支配力や権威を必要としない政権となっていた。 なお、織田信長が上洛によって天下を取る一歩手前までいった事から、江戸時代の軍記物等では、全ての戦国大名が上洛を目指したかのような解釈が広がった。例えば、駿河国の今川義元が永禄4年(1560年)に尾張に遠征し桶狭間の戦いで戦死したが、小瀬甫庵の『信長記』等の軍記物では上洛が目的であったとされた。一方、足利義昭の呼びかけにより、甲斐国の武田信玄が元亀年間に大規模な美濃・三河・遠江方面への軍事的侵攻である西上作戦を行い、また、越後の上杉謙信や、安芸の毛利輝元も織田信長と敵対したが、もし入京していれば将軍を奉じる形式の上洛に当てはまっていた。なお、天正10年(1582年)の本能寺の変では、明智光秀が足利義昭を奉じていたという説もある。 さらには全ての戦国大名が天下を取る事を狙っていた訳ではない。毛利元就が自分の子孫は天下を望むべからずと遺言した事は有名な話である。後北条氏は初代の伊勢宗端(北条早雲)が室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の分家出身であったが、二代目の北条氏綱以降鎌倉幕府の執権・北条氏の後継を称して関東での勢力圏拡大には熱心であったが、天下取りの意図は見えなかった。[要出典] また、上洛がすなわち天下取りの必須条件だったかのように言われる事もあるが、これにも異論がある。天下を取る可能性があった戦国大名として名前があがる伊達政宗や九州の島津氏、あるいは最終的に天下を取る事になった徳川家康も、室町将軍を擁して上洛した事は一度も無い。[要出典]
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