司法省から外務省に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「条約改正」も参照 1880年(明治13年)11月18日、小村は帰国し、12月6日、司法省に入省した。条約改正交渉のために法典整備を進めていた日本政府が外国の法律に通じた人材を求めていたからであった。当初配属された刑事局では、当時の日本の法律の条文が漢文調のものだったため、しばらく漢語や漢字から遠ざかっていた小村はこれに苦労した。1881年10月には大坂控訴裁判所判事に異動、1882年9月には大審院判事となった。この間、1881年9月には旧幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)(1865〜1937)と結婚し、家庭を持っている。法務官時代の小村はしかし、芝居好きで家事をしない妻と次第に仲たがいするようになり、深酒や芸妓遊びに浸る放蕩生活に溺れていき、友人や先輩たちを心配させた。 こうしたとき、井上馨外務卿の意を受けた外務省公信局長の浅田徳則が大学予備門長となっていた杉浦重剛に対し「誰か英語が堪能で法律に詳しいものがいないか」と声をかけた。杉浦は当初は教授や学生を候補に考えていたというが、結局、東京開成学校でともに学んだ小村を推挙し、井上の秘書官だった斎藤修一郎も彼を推した。こうして、友情に支えられた小村は1884年(明治17年)6月、外務省に移った。29歳であった。しかし、最初は公信局勤務であり、浅田の下で、もっぱら在外公館とのあいだで交わされる電報文書の翻訳を主とする地味な仕事であった。1885年5月、公信局が政務局と通信局に分かれたとき、小村は翻訳局に移った。これについては、上司を批判したために翻訳局に移されたともいわれている。1886年3月、小村は翻訳局次長に昇任、局長は鳩山和夫であった。鳩山が1888年9月に辞職すると小村は翻訳局長に昇進し、1893年10月の廃局までの5年間その職にあった。 小村が司法省から外務省に転じた頃、父の寛が経営していた飫肥商社が倒産し、小村は莫大な借金をかかえた。1883年5月に長男の欣一、1886年7月に長女の文子、1895年5月には次男の捷治が生まれて家族が増え、小村にとっては恩人である小倉処平の遺児2人の養育費も払っていた。妻子を養いつつ巨額の債務を返還しなければならない小村の生活は、著しく困窮した。自宅にも職場にも借金取りが押しかけ、家にある家具といえば動かない柱時計を除くと、長火鉢が1つと座布団が2つだけであった。常に一張羅のフロックコートをまとい、傘はささず、出勤にも電車・人力車を決して使わず、必ず徒歩で職場に向かったという。長男欣一は栄養不足のため夜盲症に罹っている。 外務省時代の小村の行動として特筆すべきこととして、条約改正交渉の反対運動にひそかに参加していたことが挙げられる。具体的には、親友の杉浦重剛らが条約改正反対のために結成した乾坤社同盟に加わっていた。1879年から外務卿、1885年から外務大臣を務めた井上馨は領事裁判権撤廃と関税自主権の一部回復のため、「鹿鳴館外交」の名で知られる欧化政策を積極的に進めており、欧米にならった法典を整備すること、裁判所に外国人判事を採用すること、および内地開放を条件に交渉を進めようとしていたが、これには政府内外からの批判や反対があった。小村の場合は、みずから外務省に勤務しながらの反対なので、その立場はきわめて微妙なものであったが、井上の改正案はあまりに妥協的すぎて、小村には屈辱的に感じられたのであった。また、それにつづいて1888年から外相となった大隈重信も従来の列国会議方式を単独交渉方式に改めたものの、大審院に外国人判事を認めるなど井上条約案の一部を踏襲して交渉を進めようとしたので、やはり反対運動が起こった。小村は、これにも参加しているが、それは政策の実現性を第一に考えるのではなく、それよりも国益や国家の誇りを優先させべきと考えてのことであった。 1891年(明治24年)5月の大津事件に際しても、青木周蔵外相はじめ死刑論が優勢ななか、ロシアを恐れるあまり法律を曲げて津田三蔵を死刑にしてはならないと、一貫して死刑反対論の立場に立った。また、この件について各国の重要な電信で外務省で回覧されたものについては、小村は逐一自分の批評と判断を加えて回読に供したといわれている。 なお、小村はこの頃、福本一誠、小沢豁郎、白井新太郎の3名が発起人となって1891年7月に創立されたアジア主義団体、東邦協会にも賛同者の一人として名を連ねている。
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