司法省時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 15:24 UTC 版)
1935年大審院検事となってからも様々な行刑法規の立案にかかわり、1941年の治安維持法改訂にも関与。正木は当時の欧州ドイツ刑法学の新派思想であった、社会を犯罪から守るための矯正施設が監獄であるという「社会防衛論」を支持し、懲罰、応報の収容施設としての監獄からの脱却を考え、「犯罪者矯正」の観点から監獄を矯正施設として環境改善、教育、衛生管理を徹底させた。しかしその後、同法が国民の思想統制に利用される結果となり、このことが治安維持法に関与したとして、後に池田克とともに思想検事とされ、公職追放のきっかけになる。 広島控訴院(現・広島高等検察庁)次席検事、前橋地方裁判所検事正などを経て1941年、司法省行刑局長。同年刑務協会(現・矯正協会)会長。1943年、司法省刑政局長。この年石川島で受刑者による全国造船奉仕隊の鋲打大会を行い、逃亡者なく、日本で初めての完全開放行刑をした。
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