司法省法学校正則科第2期生とは? わかりやすく解説

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司法省法学校正則科第2期生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 01:29 UTC 版)

賄征伐」の記事における「司法省法学校正則科第2期生」の解説

司法省法学校寄宿舎食事は、朝食がパン・スープ・鶏卵昼食洋食1品、夕食付き日本食というメニューだった。政府はこの食事提供するため、一人当たり毎月4円50銭を負担していたが、実際には賄方による着服があり、金額見合った食事内容はなっていなかった。 1879年明治12年)のある日曜日法学校正則科の2期生夕食をとろうとしたが、ご飯の量が少なかった法学校生徒日曜日には外出許されているので、もらった小遣い学生は、政府から毎月2円25銭が小遣いとして支給されていた)で外で食事してから寮に戻ってくる。賄方はそれを見越して夕食をいつもより少なめにしていたのである。ところがそれに納得しない学生たちは、もっと飯を寄こせと賄方に激しく要求し食堂内は大騒動となった後日学校側賄征伐行った学生20に対して2週間禁足外出禁止処分下した。ところが福本日南学生4人は、処分そのもの規則であるから受け入れるものの、「我々は形而下に於いて心服仕らず」、つまり、心の中では納得していない、といった対応をとった。そのため校長論争になり、最終的に4人は身元保証人預かりとなった。 この処罰受けて立ちあがった学生原敬であった。原は征伐には参加していなかったが、参加者から事情聴くことによって、処罰反対思い強く抱いた。そして陸羯南とともに学生代表として校長抗議した。しかし校長は、命令には心服すべきだと言い態度変えなかった。そこで原は、同級生2人を連れ当時司法卿大木喬任直談判行った。 原たちは大木主張伝えようとしたが、あまり上手くゆかず、大木から、「心服はしなくても命令従いえすれば良いという考え方は、敬徳・愛篤の精神反する」と説教された。 一方で、事が司法卿にまで及んだことで自らの面目保てなくなると感じた校長は、関係する学生16人に放校処分下した。この時放校され学生には、原のほか、陸羯南福本日南加藤恒忠国分青崖がいる。 この事件多く放校者を出したため、司法省補欠試験行いその結果6人が入学した。この時の入学者に、梅謙次郎田部芳手塚太郎がいる。

※この「司法省法学校正則科第2期生」の解説は、「賄征伐」の解説の一部です。
「司法省法学校正則科第2期生」を含む「賄征伐」の記事については、「賄征伐」の概要を参照ください。

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