司法省法学校正則科第2期生
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「賄征伐」の記事における「司法省法学校正則科第2期生」の解説
司法省法学校の寄宿舎の食事は、朝食がパン・スープ・鶏卵、昼食が洋食1品、夕食が魚付きの日本食というメニューだった。政府はこの食事を提供するため、一人当たり毎月4円50銭を負担していたが、実際には賄方による着服があり、金額に見合った食事内容にはなっていなかった。 1879年(明治12年)のある日曜日、法学校正則科の2期生は夕食をとろうとしたが、ご飯の量が少なかった。法学校の生徒は日曜日には外出が許されているので、もらった小遣い(学生は、政府から毎月2円25銭が小遣いとして支給されていた)で外で食事してから寮に戻ってくる。賄方はそれを見越して夕食をいつもより少なめにしていたのである。ところがそれに納得しない学生たちは、もっと飯を寄こせと賄方に激しく要求し、食堂内は大騒動となった。 後日、学校側は賄征伐を行った学生約20人に対して、2週間の禁足(外出禁止)処分を下した。ところが福本日南ら学生4人は、処分そのものは規則であるから受け入れるものの、「我々は形而下に於いて心服仕らず」、つまり、心の中では納得していない、といった対応をとった。そのため校長と論争になり、最終的に4人は身元保証人預かりとなった。 この処罰を受けて立ちあがった学生が原敬であった。原は征伐には参加していなかったが、参加者から事情を聴くことによって、処罰反対の思いを強く抱いた。そして陸羯南とともに学生代表として校長に抗議した。しかし校長は、命令には心服すべきだと言い、態度を変えなかった。そこで原は、同級生2人を連れ、当時の司法卿の大木喬任に直談判を行った。 原たちは大木に主張を伝えようとしたが、あまり上手くゆかず、大木から、「心服はしなくても命令に従いさえすれば良いという考え方は、敬徳・愛篤の精神に反する」と説教された。 一方で、事が司法卿にまで及んだことで自らの面目が保てなくなると感じた校長は、関係する学生16人に放校処分を下した。この時放校された学生には、原のほか、陸羯南、福本日南、加藤恒忠、国分青崖がいる。 この事件で多くの放校者を出したため、司法省は補欠試験を行い、その結果6人が入学した。この時の入学者に、梅謙次郎、田部芳、手塚太郎がいる。
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