古代文献に見られる同様の装置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 18:23 UTC 版)
「アンティキティラ島の機械」の記事における「古代文献に見られる同様の装置」の解説
キケロによる紀元前1世紀ごろの哲学対話集『国家論』には、太陽、月、その他当時知られていた5つの惑星の動きを予測する2つの装置についての記述があり、これらは現在ではある種のプラネタリウムもしくは太陽系儀を指していると考えられている。これらの機械はアルキメデスにより作られ、紀元前212年のシラクサの包囲における彼の死後、ローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスの手でローマに運ばれた。マルケッルスはアルキメデスに敬意を表し、2つの機械の片方を唯一の戦利品として持ち帰った(もう一方はバータス神殿に供された)。機械はマルケッルス家の家宝とされ、キケロはフィラス(スキピオ・アエミリアヌスの別荘で紀元前129年にあったとキケロが想像した会話の参加者)にガイウス・スピルキウス・ガルス(マルケッルスの甥と共に紀元前166年に執政官を勤め、日食と月食についての書物を記した最初のローマ人としてガイウス・プリニウス・セクンドゥスに称された人物)が機械について「覚えた説明」を語り、機械を動かして見せた、と言わせている。 hanc sphaeram Gallus cum moveret, fiebat ut soli luna totidem conversionibus in aere illo quot diebus in ipso caelo succederet, ex quo et in [caelo] sphaera solis fieret eadem illa defectio, et incideret luna tum in eam metam quae esset umbra terrae, cum sol e regioneガルスがその球体を動かすと、地球内部で回った分だけそのブロンズ(の仕掛け)の上を月は太陽を追いかけて回った。また空中で太陽の球体と月が列を成し、月が地球(上)に(その)影を落とす位置に来て日食を作り出した。 よって、少なくとも一つ以上のアルキメデスの機械がおよそ紀元前150年の時点まで機能していた。そしてその機械は、おそらくかなりアンティキティラ島の機械と似ていた(ガルスの興味と、『国家論』の記述が天文学上の出来事、特に日食に関連しているという事実から考えて)。パップスはアルキメデスはその組み立てを失われた著書On Sphere-Makingに記したとしている。アレキサンドリア図書館から現代に伝わる文献には、アルキメデスの多くの創作物(そのうちのいくつかは単純な下書き)についての記述がある。そのうちの1つはオドメーターで、これは後にローマ人がマイルストーンを設置する際に使用されたものと同じモデルである(ウィトルウィウス、アレクサンドリアのヘロン、皇帝コンモドゥスの時代に記述されている)。下書きに描かれた装置の数々は機能するように見えたが、実機の製作には成功していない。図中の歯車の歯は四角だったが、それをアンティキティラ島の機械タイプの、角度のついた歯に換えると機械は完璧に作動した。これはアレクサンドリア図書館が焼失した際に失われた、アルキメデスによる書物に記されていた1つの例であるのか、彼の発見に基づいて作られた機械なのか、あるいはアルキメデスは全く関係していないのかは議論の余地がある。 もしキケロの説明が正しければ、この技術は紀元前3世紀には存在していたことになる。アルキメデスの装置はまた4世紀から5世紀にかけて、ラクタンティウス(Divinarum Institutionum Libri VII)、クラウディアヌス(In sphaeram Archimedes)、プロクロス(エウクレイデスの『原論』に対する注釈)ら後期ローマ時代の作家たちに言及されている。 キケロはまた、「最近」友人のポセイドニオスがもう一つ同様の装置を作った、と以下のように述べている。「…回転するたびに、太陽と月と5つの動く星々(惑星)の動きを、毎日天に昼と夜をもたらすのとほぼ同じように作り出した…」 これらの装置のうちのひとつが、難破船から発見されたアンティキティラ島の機械であるとは考えにくい。なぜなら、アルキメデスによって作られ、キケロが言及した2つの機械は、ともに船が難破したと推定される時点よりも、少なくとも30年以後にローマに存在していたからであり、3番目に挙げた機械は船が難破した当時はポセイドニオスの手中にあったことはまず間違いない。結局、知られている限り少なくとも4つの同様な装置が存在していた。アンティキティラ島の機械を復元した現代の科学者たちは、この機械が一度作られただけのものにしては作りが洗練されすぎていると考えている。 キケロの記述にあるようにアンティキティラ島の機械は唯一の存在ではないかもしれない。その仮説は、古代ギリシャの複雑な機械装置の伝統は、後にイスラム世界に伝えられ、中世に工学者と天文学者によって同様の複雑な機械装置が作られた、というアイデアを支持する。9世紀初期にカリフの指示により記されたBanū Mūsāの『Kitab al-Hiyal(精巧な装置)』には、100を超える機械装置に関する記述がある。それらの装置のうちいくつかの起源は、僧院に保存されていた古代ギリシャ語の書物にまで遡る。同様に複雑な天文装置が11世紀以降アル・ビールーニーとその他のイスラム天文学者によって作られている。
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