反射炉跡
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反射炉は天狗党の乱で破壊されたが、1882年(明治15年)頃に民間へ払い下げられるまで、現地に残っていた。その後は完全に取り壊され、畑に変化し、一部は茨城県立湊商業学校(現・茨城県立那珂湊高等学校)の敷地に、残りは陸軍省の土地となった。 1936年(昭和11年)、那珂湊商業学校の英語教師・関一は、那珂湊反射炉に関する最初の専門書『烈公の国防と反射炉』を上梓した。『烈公の国防と反射炉』は特に那珂湊の人物である飛田与七について詳述した資料的価値の高い著作であるが、軍国主義の時代を反映し、国防意識を喚起する啓蒙書としての性格を帯びていたため、水戸藩に招かれた3人の技術者のいざこざには全く言及せず、福井仙吉の失職と復帰をめぐる友情物語(後述)を美談として掲載している。 1937年(昭和12年)12月、陸軍省から土地を購入し、那珂湊出身の弁護士・深作貞治(1888年 - 1958年)が私財を投じて吾妻台に反射炉の実物大模型を建設した。模型には那珂湊反射炉で実際に使われた煉瓦が再利用された。反射炉の2つの煙突の間には、東郷平八郎の絶筆である「護国」の字が刻まれた碑が立てられた。平八郎の甥である東郷吉太郎が反射炉研究家であったことが縁となったものである。また関は、模型完成を記念して「反射炉与七の唄」を作詞した。5番まであり、各番の歌い出しが「与七偉いぞ」のこの唄は、飛田家7代目夫妻が与七の墓の後ろに立てた御影石の碑に刻まれている。 1970年(昭和45年)には反射炉模型の前に、ここで造られた大砲の模型が設置された。大砲模型は、愛郷児童館の開館記念に児童委員の稲野辺勝年が設置したものである。 2004年(平成16年)11月25日、「那珂湊反射炉跡 附那珂湊反射炉資料25点」として茨城県の史跡に指定された。那珂湊反射炉が大島による洋式高炉建設の契機となったことに加え、先人が反射炉跡に復元模型を建て、保存してきたことも史跡指定の際に評価を受けた。名称の通り、反射炉の跡(5,315 m2)だけでなく、飛田与七が残した反射炉に関する資料が附(つけたり)として文化財指定を受けている。県史跡の対象とならなかった飛田の資料は、「那珂湊反射炉飛田家資料」として2003年(平成15年)10月15日にひたちなか市の歴史資料に指定されている。2007年(平成19年)11月30日、経済産業省は「33近代化産業遺産群に係るストーリー」を公表し、「『近代技術導入事始め』海防を目的とした近代黎明期の技術導入の歩みを物語る近代化産業遺産群」を構成する遺産として「水戸藩による事業の関連遺産」を認定、那珂湊反射炉に関するものは「那珂湊反射炉跡及び反射炉模型」と「耐火煉瓦焼成用の登り窯(復元)」が選ばれた。 2015年(平成28年)8月、反射炉模型を白く塗装する改修工事に着手し、同年12月に完了した。これを契機として、2016年(平成28年)1月17日に「反射炉シンポジウム2016」が那珂湊総合福祉センター(しあわせプラザ)で開催された。シンポジウムでは、大島高任の玄孫が那珂湊反射炉の歴史的・文化財的価値について基調講演を行った後、大島の玄孫や飛田与七の弟の子孫らがパネルディスカッションに臨んだ。 2021年(令和3年)3月20日、つくばマルチメディアが運営する「茨城VRツアー」のスポットの1つとして、あづまが丘公園と那珂湊反射炉跡が追加された。地上および上空からVR写真で那珂湊反射炉跡を見ることができる。
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