反射炉建設に至る背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 00:46 UTC 版)
「那珂湊反射炉」の記事における「反射炉建設に至る背景」の解説
那珂湊(江戸時代は常陸国那珂郡湊村、後に那珂湊市)は東廻り航路の寄港地として、また常陸・下野の物資の集散地として水戸藩領内では繁華な地であった。このため、藩は初代徳川頼房の頃から湊村を中心とした海防に力を入れており、2代徳川光圀は湊村日和山に異国船番所を置いた。文政年間(1818年 - 1831年)にはたびたび異国船が常陸国沖合に現れた。警戒を強める藩に対し、沿岸漁民は好奇心旺盛で、船に乗り込んではチェスの駒やナイフ、瓶詰のマスタードなどをもらって帰ってきた。郷士格を持つ堀川興のように、藩の許可なく異国人と筆談したとして処分を受けた村人もいた。 文政12年(1829年)、徳川斉昭が9代藩主に就任し、藩政改革に乗り出した。斉昭は海防意識が高く、助川海防城を築いて山野辺義観を海防総司に任じた。天保12年(1841年)には水戸城下の神崎に鋳砲所を建設し、助右衛門らに口径20 cm以上級の青銅製の大砲を約300門造らせた。原料の青銅は藩領内の寺社からほぼ強制的に供出させたため寺社の不興を買うこととなり、反斉昭派の勢力と結び付いて斉昭は一時謹慎を命じられたが、嘉永2年(1849年)に藩政への参与が許され、嘉永6年(1853年)の黒船来航後、海防参与に任命されて幕政にも参画するようになった。 この間、嘉永4年(1851年)に薩摩藩が反射炉の建設に乗り出すことを斉昭は知った。当時、水戸藩領内の銅が不足していたこと、鉄製大砲の性能が優れているという情報を得たこと、薩摩藩主の島津斉彬とは親しい間柄であったことから、斉昭は嘉永5年(1852年)に大工の飛田与七を鹿児島に送り、鉄製大砲の鋳造技術を学ばせることにした。飛田は鹿児島で、後に水戸藩へ派遣される技術者の竹下清右衛門の下で反射炉について学んだものと見られる。
※この「反射炉建設に至る背景」の解説は、「那珂湊反射炉」の解説の一部です。
「反射炉建設に至る背景」を含む「那珂湊反射炉」の記事については、「那珂湊反射炉」の概要を参照ください。
- 反射炉建設に至る背景のページへのリンク