反射炉の築造と試行錯誤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 06:36 UTC 版)
「築地反射炉」の記事における「反射炉の築造と試行錯誤」の解説
直正は嘉永3年6月(1850年7月頃)、藩の砲術研究を担う組織「火術方」を分割し、大砲製造を行う「大銃製造方」を新たに設けて反射炉の築造にあたらせた。大銃製造方の長には火術方の責任者であった本島藤太夫を任命、また副長に杉谷雍介と田中虎太郎(技術)を任命した。この3名に加えて、馬場栄作(和算家)、田代孫三郎(会計)、谷口弥右衛門(鋳工頭梁)、橋本新左衛門(刀鍛冶)の7名は後に反射炉の成功に貢献した「御鋳立方の七賢人」と呼ばれている。 直正は一方で、伊豆韮山代官の江川英龍が主催する「江川塾」に協力を要請した。江川は1849年に小型の実験反射炉の試作を行っていた上、高島秋帆から西洋砲術を学んでいたからである。既に、天保14年(1843年)に直正の命で本島を江川と下曽根金三郎の下に派遣し西洋砲術を学ばせていた過去もあった。本島は、嘉永3年1月(1850年2月頃)に韮山の江川の下を訪ね長崎砲台の増設計画について相談を行ったほか、同年3月(同4月頃)再び訪ねて西洋砲術を学んでいる。 反射炉の築造は、佐賀城の北西にある築地(ついじ、現在の佐賀市長瀬町)にて嘉永3年7月(1850年8月頃)に始まり、同年11月(同12月頃)に1基が完成した。12月4日(1851年1月5日)に火入れ、12月22日(同1月23日)に1回目の鋳造、嘉永4年1月14日(同2月14日)に2回目の鋳造を行ったが、いずれも失敗した。原料には刀剣を用いたと記録されており、原料鉄の質の重要性は既に認識されていたと考えられる。失敗の要因としては炉の温度が低かったことと考察されており、温度を上げる取り組みが行われた。 そして、嘉永4年4月10日(1851年5月10日)、5回目の鋳造で初めて鉄砲1門の鋳造に成功した。しかし、数日後試射を行ったところ砲身が破裂してしまった。残骸の断面を見ると気泡がみられたといい、鉄質が未だ不均一であった。この後も、鋳造に成功しても試射で破裂する例が後を絶たず、射手などが死亡する事故が続出した。良質の鉄の鋳造が出来るようになって軌道に乗ったのは、嘉永5年5月2日(1852年6月19日)の14回目の鋳造であった。この間、錐鑚台(砲身を繰り抜く機械)や、その動力としての水車などが設けられ、嘉永4年10月(1851年11月頃)に2号炉、嘉永5年4月(1852年6月頃)に3・4号炉が増設されている。同年6月11日には全4基を稼働させて36ポンド砲を鋳造した。
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