南アフリカとレソトでの教育:1966-1972
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「南アフリカとレソトでの教育:1966-1972」の解説
1966年、ツツ一家はイギリスを去り、パリとローマを経由して東エルサレムへ旅した。この街で2か月を費やし、ツツはアラビア語とギリシア語を聖ジョージ大学(英語版)で学んだ。彼はこの都市におけるユダヤ人とアラブ系市民の間の緊張に衝撃を受けた。一家はここから南アフリカに戻り、ウィットウォータースランドでクリスマスを家族で過ごした。人種隔離とパス法が課せられる社会に再び順応することは彼らにとって容易ではなかった。彼はイスラームの聖典クルアーン(コーラン)におけるモーセ(英語版)というテーマで南アフリカ大学の博士号(PhD)を得る可能性を探ったが、この計画は実現しなかった。1967年、彼らは東ケープのアリス(英語版)に赴いた。そこでは異なるキリスト教派の訓練機関が合併して南アフリカ連邦神学校(英語版)(Fedsem)が設立されたばかりであった。ツツはそこで教義、旧約聖書、ギリシア語の教官として雇われた。ツツはこの大学の最初の黒人職員であり、他のほとんどの職員は在留ヨーロッパ人とアメリカ人であった。このキャンパスは南アフリカ社会ではほとんど存在しないレベルでの人種混合を認めていた。ツツの妻ノマリゾ・レアも図書館助手としてここで雇用を得た。夫妻は、南アフリカ政府のバントゥー教育のシラバスで指導されないように、スワジランドの私立の寄宿学校に子供たちを送った。 聖ピーター教会では、ツツは汎プロテスタントグループの教会統一委員会(Church Unity Commission)に加わり、南アフリカでの聖公会・カトリックの対話の代表者を務めた。彼はまた、この時点から学術誌や時事問題の雑誌に寄稿し始めた。ツツはまた隣接するフォート・ヘア大学の聖公会牧師(the Anglican chaplain)として任命された。この時代としては異例なことに、彼は男子学生とともに女子学生たちを聖餐式のサーバー(server)に任じた。彼はAnglican Students' FederationとUniversity Christian Movementで会合するため、聖公会の学生代表団に加わった。この環境から、スティーヴ・ビコやバーニー・ピトヤナ(英語版)のような人物の指導力の下、黒人意識運動(英語版)が登場した。ツツはアパルトヘイトと闘うために他の人種グループと協力することを厭わなかったが、彼らの努力は支持していた。1968年8月、彼は南アフリカの状況を東側諸国と比較し、当時のプラハの春を反アパルトヘイトになぞらえた説教を行った。9月、フォート・ヘアの学生たちは大学経営方針への抵抗として座り込みを行った。彼らが警官と警察犬に包囲された後、ツツは群衆の中に分け入り、抗議者たちと共に祈った。国家権力が異議を圧するために使用されるのを目撃したのは彼にとってこれが初めてであり、翌日、彼は礼拝の間に嗚咽した。ツツは南アフリカ連邦神学校の副校長に就任する予定であったが、レソトのローマ(英語版)にあるボツワナ・レソト・スワジランド連合大学(英語版)(UBLS)の教員としての職を受け入れ、連邦神学校を離れることを決めた。この新しい地位は、彼が子供たちのそばで暮らすことを可能とし、連邦神学校で彼が得ていた報酬の倍額が提供された。1979年1月、ツツは妻と共にUBLSのキャンパスに移った。彼のスタッフメンバーの大半はアメリカとイギリスから来た白人が大半であったが、UBLSの方針は非人種的かつ包含的なものであった。教職に就くのと同じく、彼は大学の聖公会牧師と、二つの学生寮の管理者(warden)となった。レソトでは、彼はLesotho Ecumenical Associatioの理事会(the executive board)に参加し、南アフリカ連邦神学校とローズ大学の外部審査官(英語版)を務めた。1971年の2月の父親の死の直前に訪問したのを含めて、複数の機会にツツは南アフリカに帰国した。
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