南アフリカでのキャリア
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「エリック・チゾーム」の記事における「南アフリカでのキャリア」の解説
「エジンバラ・タットラー The Edinburgh Tatler」誌のチゾーム追悼特集はこう記している。「彼の人生のハイライトは次の3つの出来事にあるだろう。1つ目は7歳の時にフレデリック・ラモンドが弾くベートーヴェンの月光ソナタのピアノロールを聴いたとき。2つ目はインドの音楽を知ったとき。最後は1947年にケープタウン大学の音楽科長の誘いを受けたときである。」 その年、チゾームはアフリカ音楽大学を再始動させ、そこでついには作曲家ステファンス・グローヴェと歌手のデジレー・タルボットを教えることになる。エジンバラ大学をモデルとし、チゾームは新たな職員を任用し、学科の数を増やし、学位号を新設した。芽を出しはじめた南アフリカの音楽家を勇気付ける目的で、彼は1948年に南アフリカ国音楽出版を創設した。さらにイタリアのバリトンであるグレゴリオ・フィアスコナーロ(Gregorio Fiasconaro)の助力を得て、チゾームは1951年に大学のオペラ興行会社を、1954年にオペラ学校を創設した。それらに加え、1948年には国際現代音楽協会の南アフリカ支部を創り、国際的な指揮者のキャリアを追求した。 南アフリカ音楽大学のオペラ興行会社は国家的成功を収め、ザンビアやイギリスに演奏旅行を行った。1956年冬、チゾームが夢に描いていた南アフリカの音楽と音楽家の祭典は、ロンドンのウィグモア・ホールでの演奏会とルドルフ・スタイナー劇場でのバルトークのオペラ「青ひげ公の城」のロンドン初演で大きな成功を収めた。興行会社はまた、メノッティの「領事官 The Consul」や、アイルランドの作家であるメアリ・レヴィンの劇を基にしたチゾームのオペラ「アイルランドの女 The Inland Woman」を上演した。1952年にはシモン・ゴールドベルクが自作のヴァイオリン協奏曲を、ケープタウンのヴァン・リービーック音楽祭(Van Riebeeck Music Festival)で初演した。チゾームのオペラ三部作「3つの鍵の殺人 Murder in Three Keys」は1954年のニューヨークで6週間にわたるシーズン上演され、2年後にはモスクワに招かれてモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、自作の「ピアノ協奏曲第2番 インドの主題による」を演奏した。1961年には彼の会社が南アフリカの作曲家ジョン・ジューベアールの初のオペラ「サイラス・マーナー Silas Marner」の初演を行った。 チゾームは南アフリカが施行していたアパルトヘイトには与せず、社会主義的傾向を有していた。彼はロナルド・スティーブンソンや友人のスコットを説得し、ケープタウン大学で演奏を行った。スティーブンソンの「パッサカリア Passacaglia」の演奏中、プログラムはレーニンのスローガンである「平和とパンと土地」に言及し、また「アフリカの隆盛」に経緯を評していた。翌日には南アフリカ警察が、チゾームの仕事とソ連との関係を疑い、彼の学科を捜索した。
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