医学の迷信との闘い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 20:43 UTC 版)
「古代ギリシア医学 (ガレノス以前)」の記事における「医学の迷信との闘い」の解説
W・H・S・ジョンズはその『古代ギリシアにおける哲学と医学』のなかで、医術の三つの敵として迷信、偽哲学、雄弁術を挙げている。迷信的要素は『ヒポクラテス集典』の中にもわずかながら存在する (例:「養生法」4節、79節、90節)。けれどもヒポクラテス医術の特徴の一つはこの迷信、魔術との闘いなのであり、これは「空気、水、場所について」22節、および「神聖病」1、5、21各節において顕著である。この特徴はとりもなおさずギリシア医学の特徴なのである。なるほどメソポタミアや古代エジプトの医術にも合理的要素はあった。これについて、たとえば『ギリシアの遺産』で医術の項を執筆したシンガーは、アッシリア・バビロニアの医術(英語版)について、「今日観察される文盲の部族のそれよりもはるかに組織立っているとはいえ、その効験はほとんど後者の上には出ない。このような医術について、我々は記事を造ることはできても、その歴史を書くわけには行かない。歴史は連続性と発展性の要素にもとづいて組立てられるものであるのに、彼らにはこの要素が認められないからである」と述べ、その科学性を否定する態度をとっている。が、それらの合理的要素を含む点を強調するものには、ディープゲン『医学史』、ホーニヒマン『医学の歴史的発展』その他がある。またマルグリット・リッタン著『バビロニアの科学』によれば、G・コントノー『アッシリアとバビロニアにおける医学』、R・ラバ『医学的診断と予断についてのアッカドの解説』などによって、「医療行為は呪術の実技とは切り離されていた」、「・・・それを治療学の立場から扱うのみに満足せず、バビロニアの医師たちはそれに特別な研究を捧げ、分離された各徴候および認定された病気の原因と結果に関係のあるすべての観察を分類しまとめあげようと苦心したと述べられている。また、1961年にアメリカ医学史協会(英語: American Association for the History of Medicine)で行われた「古代近東の医術の実話と実施についてのシンポジウム」の記事では、大略次のようなことが出ている。 もし科学を最大限に定義して「実証的知識群の意識的収集と組織化への欲求、この知識群の無限の拡がりとその価値の相対性、数個の前線をもち諸原則に導かれ停滞することのない不断の前進」を科学に要求するならば、前6世紀のギリシア科学は、物理学(自然学)・幾何学・医学の一部を例外として、実証性を欠いた思弁に過ぎず、科学の序曲に過ぎないことになる。もしまた科学を最小限に定義づけるならば、科学と技術の分離は困難になるであろう。けれどもとにかく東方の国々とギリシアの間には一線を画することが妥当である・・・(A. Leo Oppenheim、メソポタミア医学を担当)。 またエジプト医学を担当したJohn A. Wilson は、J. H. Breasted, Edwin Smith Surgical Papyrus (Chicago Univ. Press 1930)から例をとって、宗教と科学との争いの点に立つ医者について次のような興味ある報告をしている。 ・・・第7例。頭蓋骨に達する疵からくる障害の治療に際して、数次にわたる経過の観察を行い、破傷風かどうかを確かめる。そしてもし破傷風であれば治療不可能としてこれを放置し、そうでなければ治療をする。これは冷静な科学的実験とまでは行かないにしても、科学的好奇心と経験的態度の礎石である。経験科学への扉は鍵がかかったり密閉されたりしていたのではない・・・。・・・第8例、頭蓋骨は壊れているにもかかわらず外傷は存在しない。身体の一部と硬直がある。しかしこれは外部からの神性の侵入とは理解せずに、人体の自生的障害と見なして神秘に対抗せよ、との勧奨が行われている。このような態度はエジプト外科医学を神秘の隷属から解放するものである。古代医学の相互闘争状態度を示す興味ある例である・・・。
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