医学への転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 17:20 UTC 版)
1937年(昭和12年)に発生した盧溝橋事件をきっかけに、大日本帝国陸軍は中国大陸に日本軍を進駐させ、日中戦争が勃発した。これを侵略であると非難する、アメリカ合衆国との外交関係の悪化を懸念した大日本帝国政府は、1938年(昭和13年)ニューヨーク市に、新たに日本文化会館を設けて世論の改善を図ろうとした。当時朝日新聞で論説委員を務めていた多門は、二・二六事件の頃から軍部および特高の注意を引くようになり、これを危惧した友人らの斡旋によって、この施設の初代館長に任命された。以前から渡米の話を持ちかけられていた美恵子も含めた一家は、揃ってニューヨーク市近郊のスカースデールに移住した。美恵子はこの頃にも医学への転向を再三父に申し出ている。父はこれを許さず、彼女はコロンビア大学大学院古典文学科で古典ギリシア文学を学び始めた。 翌年には、フィラデルフィア郊外に存在するクエーカー運営の学寮ペンドル・ヒル(英語版)で寄宿生活を送り、生涯の友人となる浦口真左と出会っている。医学部進学に対する父の許しを得た美恵子は、1940年(昭和15年)2月からコロンビア大学医学進学課程に入学した。翌年太平洋戦争の勃発を危惧した一家は、父を残して帰国し、美恵子は東京女子医学専門学校本科に編入学した。この頃コロンビアにおいて出会った人物と婚約したと見られるが、すぐにこれは解消された。翌1941年(昭和16年)12月には大日本帝国海軍の真珠湾攻撃によって日米は開戦し、多門はエリス島でしばらく抑留生活を送った後に、第一次交換船で大日本帝国へと帰国した。
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