医学への造詣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:44 UTC 版)
徳川家康が製剤させた漢方薬の紫雪に関心を持ち、江戸に詰めていた忠利に頼んで薬能書付きのこれの製法を入手し、玉弥というお抱え医師の指導のもと、自ら製剤している。 脈の結滞を心配する息子の細川忠利の症状を癪か痰が原因と判断し、命に別状はないから心配はないと書状を送っている。つまり自己の体験をもとに、そうであれば生命に差し障りのないことなので、心配のないことと説いたのである。 徳川秀忠が胸部の表皮に固まりができ、身体のほうぼうに移動するという病にかかり、万病円で回復した時に、忠興は薬も灸も効果がなく万病円で回復したのは寸白(寄生虫)が原因と断じている。この忠興の予知は秀忠の治療に専念していた幕府の医師衆が同様の結論を出す5ヶ月以上も前のことであった。 食事のあり方にも心しており、偏食を嫌い、その弊害を重視している。息子の忠利にバランスのとれた食事をとるように諌めた書状を送っている。実際に忠利が病にかかった時には、同じ物をたくさん食べないように念を押して忠告し、鶏卵が痰によくないこと、疱瘡に鮑が大毒であることを指摘している。
※この「医学への造詣」の解説は、「細川忠興」の解説の一部です。
「医学への造詣」を含む「細川忠興」の記事については、「細川忠興」の概要を参照ください。
- 医学への造詣のページへのリンク