包囲からの脱出
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「デミャンスク包囲戦」の記事における「包囲からの脱出」の解説
1942年5月21日、ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ中将軍指揮下のドイツ軍は包囲内の「Ramushevo線」を使っての退却を計画した。数週間をかけて、この連絡線を広げ、撤退が行われた。4月21日、集団は大きな犠牲を払いつつも脱出に成功した。この包囲内に取り込まれていた将兵100,000名のうち、3,335名が戦死、10,000名以上が負傷していた。しかし、ドイツ軍の激しい抵抗でソビエト赤軍最高司令部は、他の戦線に送り、重要な局面に投入することもできた戦力をこの戦線に縛り付けられることとなった。 包囲が形成された2月初旬からデミャンスクが事実上放棄された5月の間にホルムを含む2つの包囲内にドイツ軍は陸上、航空を問わず、物資65,000トンと増援31,000名を送り込み、36,000名の負傷者を後方へ輸送した。しかし、損害は大きく、ドイツ空軍は106機のユンカースJu 52、17機のハインケルHe 111、2機のユンカースJu 86を含む航空機265機を失い、パイロットや搭乗員を387名も失った。 ソビエト空軍は包囲内の攻撃に、戦闘機243機を含む航空機408機を失った。ドイツ空軍の成功はヒトラー、ヘルマン・ゲーリング国家元帥にも影響を与え、彼らは東部戦線において効果的かつ、保証された空輸作戦を行う方法、戦術を発案したと考えた。しかし、この経験がスターリングラードの戦いにおいて空頼みを持つ原因となった。 この地での戦いは1943年2月28日まで続いた。ソビエト赤軍はドイツ軍が撤退した1943年3月1日までデミャンスクを解放することができなかった。優秀な指揮とその精鋭部隊の激しい戦いぶりから第3SS装甲師団トーテンコップ師団長テオドール・アイケ親衛隊大将は1942年5月20日、88人目の柏葉付騎士鉄十字章授与者となった。またこの包囲戦で奮戦した将兵のためにデミャンスク盾章が制定された。
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包囲からの脱出
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「第32SS義勇擲弾兵師団」の記事における「包囲からの脱出」の解説
1945年4月22日の時点で、ドイツ第9軍とその所属軍団である第11SS装甲軍団、第5SS山岳軍団は、グーベン(ドイツ語版)、ミュールローゼ(ドイツ語版)、フュルステンヴァルデ、ケーニヒス・ヴスターハウゼンの約15km四方にあり、ソビエト第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍によって包囲されていた。第32SS義勇擲弾兵師団の4個戦闘団もその中にあった。ベルリン市街戦開始後の4月23日、クーアマルク戦闘団はオーダー川で戦っていたが、その後、戦線が突破された。当初はベルリン方面へ撤退を試みたものの失敗に終わり、次いでオーダー・シュプレー運河沿いに撤退したが、事実上、壊滅した。 4月23日夕方、第9軍は後にハルベの戦いと呼ばれる撤退戦を開始、師団の残存部隊もこれに参加することとなった。師団の残存部隊は4月25日、シル戦闘団を中心にグレーベンドルフ(ドイツ語版)に集結、多数の避難民と共にシュトレーガンツ(ドイツ語版)の森林を激戦を交わしつつ撤退を行った。4月28日、ソビエト赤軍によって占領されていたヘルムスドルフ(ミュンヒェホーフェ(ドイツ語版)内の集落)を奪回した。そこでハンス・ケンピン(英語版)SS大佐はその後の指示を仰いだが回答を得られず、負傷兵を軍医と共にヘルムスドルフに残し、さらなる撤退戦を行うことになった。28日午後2時、第9軍は最後の作戦会議を開き、午後6時をもってハルベ方面へ突破を図り、ベーリッツ(ドイツ語版)で第12軍と合流することを決定した。 1945年4月28日午後6時、第9軍はハルベへ向け撤退を開始、激しい戦いが繰りひろげられた。ケンピン親衛隊大佐率いる師団残存部隊はツォッセン(ドイツ語版)-バールート/マルク街道を越え、包囲網の北端を担当していたが、10日間に及ぶ死闘のためにすでに残存将兵は400名にまで減少、そのうえ疲弊しきっていた。しかしケンピン親衛隊大佐は「ここを脱出したいならば自らがんばるしかない」と叱咤し、西方へ向け撤退を続けた。5月1日、クラウス親衛隊大尉が率いる第32SS戦車猟兵大隊残存部隊がベーリッツへ到着、師団残存部隊を含む第9軍司令本部の将兵は最後の突撃を敢行、国家労働奉仕団の防衛線に到達し、脱出は成功した。さらに北方ではケンピン率いる師団残余も第12軍の防衛線に到達した。そのほかにもベアマン親衛隊中尉率いる少数の将兵が、第12軍所属のシャルンホルスト師団の警戒線に到着した。 2ヶ月前に編成された時点で師団に所属した将兵12,000名の内、エルベ川を渡ってアメリカ軍に降伏できたのはわずかに148名であった。
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