劇構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:00 UTC 版)
「ミンストレル・ショー」の記事における「劇構造」の解説
クリスティ・ミンストレルズは1840年代にミンストレル・ショーの基本構造を確立した。大勢の群衆が集まる劇場へのパレードがパフォーマンスに先立って行われた。ショー時代は3つの主なセクションに分けられた。第一幕では、一座の全員はまず、流行歌を歌いながらウォーカラウンド(walkaround)と呼ばれる踊りをステージ上で踊った。司会者であるインタレキューター(interlocutor)の指示で、彼らは半円状に座った。さまざまなストックキャラクターは、いつも同じ位置を取った。上品ぶったインタレキューターを中央に、両側にエンドマン、またはコーナーマンとして仕えるタンボ(Tambo)とボーンズ(Bones)が位置を取った。インタレキューターとエンドマンは冗談を言い合って、さまざまなユーモラスな歌を演じた。やがてこれらは、いつも方言とは限らない感傷的な歌曲を含むようになった。通常はテナーの一人のミンストレルが、このパートを専門にするようになり、しばしばそのようなシンガーは、特に女性とともに有名になった。アップテンポの大農園の歌と踊りで、この幕は終わった。 オリオ(olio)と呼ばれたショーの二幕目は、歴史的には最後に進化したものであり、その本当の目的はカーテンの向こうで三幕目の舞台をセッティングをするためであった。それはバラエティ・ショーのような構造だった。パフォーマーたちは踊り、楽器を演奏し、曲芸をしたり、その他の人を面白がらせる才能を披露した。一座はヨーロッパ風のエンターテインメントのパロディを提供し、ヨーロッパの一座自らがしばしば演じた。ハイライトは、一人の俳優、通常はエンドマンの一人が、偽の黒人の方言で、ナンセンスなことから科学、社会、政治についてのさまざまな長いスピーチをする街頭演説(stump speech)の場面であった。頭の鈍いキャラクターが雄弁に話そうとして、数えきれない言葉の誤用、冗談、何気ない駄洒落を述べるだけの結果となった。この間演説者は始終ピエロのように動き回り、あらん限りの演説をしてほとんどいつも同じところで壇上から落ちそうになった。ジョーカーの仮面として役立ったブラックフェイスのメイクで、これらの演説者は観衆を怒らせることなく痛烈な社会批判を提供することができたが、通常は俗受けしない話題をネタにして、それを理解できる黒人の能力をからかうことに焦点が当てられた。多くの一座は、トレードマークとなるスタイルと持ちネタを持った演説の専門家を雇った。 "A Meeting of the Limkiln Club" 1902年のアメリカン・カルテットによるスタンプ・スピーチ(街頭演説コント) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 劇の終了後に演じられる寸劇、アフターピース(Afterpiece)が上演を締めくくった。初期のミンストレル・ショーでは、これはしばしば、歌と踊りの演奏と、どたばた喜劇のシチュエーションにサンボ役やマミー役のキャラクターが出演する、南部のプランテーションを舞台にした寸劇で構成された。理想的なプランテーションの生活とそこに住む幸せな奴隷が強調された。それにもかかわらず、反奴隷制の観点は、奴隷制度や逃亡奴隷、さらには奴隷蜂起によって切り離された家族の外観に時々表面化した。いくつかの物語は、なんとか彼らの主人を打ち負かした黒人のトリックスター的なキャラクターを強調した。1850年代の半ばから、パフォーマーたちは他の芝居のバーレスクのパロディを行った。シェイクスピアや同時代の戯曲が主なターゲットであった。これらのユーモアは、上流の白人文化の要素を場違いな黒人の役柄が演じようとするところにあった。顔に投げるクリームパイ、膨らんだ空気袋、ステージ上での花火などのスラップスティック的なユーモアは、アフターピースに浸透した。『アンクル・トムの小屋』のネタは1853年から優位を占めた。アフターピースではミンストレルたちに新しいキャラクターを導入することが許され、一部は非常に人気が出て一座から一座へと広がった。
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