劇映画の製作開始
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1908年(明治41年)6月、同社のドキュメンタリー映画『韓国観』の撮影技師・福井繁一を監督に起用し、同社初の劇映画『いもりの黒焼』を製作、同作を同月25日に公開した。さらに、同社が京都で映画興行を行っていた先の「千本座」を経営する牧野省三に映画製作を依頼、牧野はこれを引き受け、「日本初の時代劇映画」と呼ばれる『本能寺合戦』を監督、同作は、中村福之助、嵐璃徳を主演に小川真喜多がカメラを回し、同年9月17日に神田「錦輝館」などで公開された。同社はまだ撮影所をもっていなかった。 1910年(明治43年)7月、二条城至近の押小路女学校通西北角に同社初の撮影所をオープン、「横田商会二条城撮影所」とした。これは日本映画史上で4サイト目の撮影所である。また同年、牧野が尾上松之助を発見、『碁盤忠信源氏礎』の主演に抜擢、日本初の映画スターが生まれた。 1912年(明治45年)1月、御前通一条下ルにグラスステージをもつ「横田商会法華堂撮影所」を新たにオープン、二条城撮影所は機能を移転して閉鎖した。同年(大正元年)9月、福宝堂、吉沢商店、M・パテー商会との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立した。「法華堂撮影所」は「日活関西撮影所」として引き継がれ、横田はのちに日活の社長に就任した。
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