初版の発行に至るまで
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「オックスフォード現代英英辞典」の記事における「初版の発行に至るまで」の解説
1923年(大正12年)に英国から招聘され、大正末期から昭和初期にかけて日本の英語教育に携わり、大分で英語を教えていたホーンビーは、自身の英語教師としての授業経験から、語学を教える際に確実な原則の必要性を感じていた。当時東京にあった英語教授研究所の所長ハロルド・E・パーマーは、1931年(昭和6年)にホーンビーを東京に招き、同研究所で語彙発達(英語版)に関する研究に従事させた。この成果により、1942年(昭和17年)4月に開拓社から Idiomatic and Syntactic Dictionary (いわば慣用語句法・文章構成法的な英英辞典)が出版された。出版の前年、ホーンビーは何とかしてこの新刊の未製本の予定原稿をブリティッシュ・カウンシルのB・アイファー・エヴァンズ(英語版)に送り、戦争中にも屈することなく勇気ある手柄を立てた。アイファー・エヴァンズはホーンビーに仕事を与え、1942年にホーンビーは英国に帰国してカウンシルに加わり、イランに配属された。 辞書の予定稿はハンフリー・S・ミルフォード(英語版)(当時オックスフォード大学専属の出版者で、実質的にオックスフォード大学出版局の業務執行取締役だった人物)のもとに届けられた。その辞書は、非英語話者のために編集され、実際に海外で英語を教えたホーンビーの確固たる経験に基づいていたので、ミルフォードは即座に、この辞書には大学出版局の書籍目録のやっかいな隙間を埋められる可能性があることを見抜いた。たとえば、綴り字、文法、音声学、用法については、生まれながらにして英語を話す人向けの辞書よりもはるかに広範囲にわたって説明してあった。販売促進のために辞書に大学出版局の証印が押されたことで、より威厳のあるオックスフォード英語辞典 (OED) に脅されるか当惑するかもしれない読者層に対して「オックスフォード辞典」ブランドを取ることができた。 しかし、第二次世界大戦の指令経済体制が敷かれた英国のすべての出版社では当時、経営上の問題が生じていた。あらゆる物が供給不足で、ミルフォードはどうにか紙と布を入手しようとしてブリティッシュ・カウンシルに助けを求めた。ミルフォードは大学出版局の海外事業を手掛けていたE・C・パーンウェルにその件を付託した。1904年以後ずっとそうであったように、相当な援助なしに出版局を経営することは、その頃のミルフォードにとってあまりに具合の悪いことであった。 ホーンビーは日本と中国を除く全世界におけるこの辞典に対する権利を携えてやってきた。当時出版局の事務局長であったケネス・シサム(フランス語版)は、この辞典に関して事務局に好意的な報告をした。ミルフォードもその当時交戦状態にあった日本との関係を巧妙に利用して、ブリティッシュ・カウンシルに対し、助成金の交付を迫った。 1,500ページ以上を数え、同版の発行部数が10,000部に及ぶこの辞典の製作には、約10トンの紙が必要とされた。ミルフォードは「イギリスの文化および海外との貿易と直接の利害関係にあるところ、とりわけ非ポンド圏において」この紙を入手するために特別公表を申請した。ミルフォードは初版を刷り始めるために十分な紙の在庫を保有していたが、これは全て「必要不可欠な再刷」用に充てられた用紙で、万一乱丁・落丁本があった場合に新品と取り替えられることを保証するための措置であった。ミルフォードの姪、エレノア・M・ブッカーが当時インド省に勤務していたため、彼は姪を通じて紙の供給を働きかけた。 最終的に1943年から1948年にかけて初版が出来上がり、出版されると、たちまち成功を収めた。今日では、世界中の英語を学ぶ人々の間で最もよく使われる英英辞典の一つになった。
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