初期におけるハディース批判とは? わかりやすく解説

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初期におけるハディース批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 15:06 UTC 版)

ハディース批判」の記事における「初期におけるハディース批判」の解説

ハディース検証学の成立期 古典的なハディース批判体系化」は、アブー・ハニーファ西暦767/ヒジュラ150没)の時代、「膨大な数の捏造ハディース」が「制御不能」な状況陥ったときに始まった。しかし、ハディース研究ハディース批判アブー・ハニーファから始まったわけではなく彼の知的先達』であり、当時イスラム学者マーリク(ヒジュラ179没)やシャーフィイーヒジュラ204没)もまた、ある意味ハディース辛辣な批判者であったスンナ派における最も権威的ハディース集となる『サヒーフ・アル=ブハーリー』が完成したのは、西暦846年ヒジュラ232年)頃であると言われる古典的イスラム学問におけるハディース検証学(ʻilm al-ḥadīth、「ハディース学問」とも呼ばれる)が「成熟期」、そして「完成期」を迎えたのは、シャーフィイー没後から約1世紀後の、西暦10世紀ごろに古典ハディース集が編纂されてからである(真正六書著者の内、最後に死去したのは西暦915年/ヒジュラ303年没のアル・ナサーイーである)。 アハル・カラームによる批判 イスラム学者ダニエル・W・ブラウン博士によると、ハディース信憑性学術性、重要性問われるようになったのは、ヒジュラ2世紀シャーフィイーイスラム法最たる権威としてムハンマドハディース確立させたときにさかのぼる。 当時、アハル・カラーム(Ahl al-Kalām)と呼ばれる反対派は、「伝承主義者の手法とその結果両方強く批判」し、ハディースにおける「伝承信頼性」を徹底的に疑った例えば、ハディースの「伝承者素質」に対す伝承主義者検証法は「あからさまに恣意的」であり、ハディース集を「矛盾した冒涜的で、不条理な伝承埋め尽くされている」と考えた。 彼らは、ムスリムムハンマド模範に倣うべきであることに反対はしなかったもの、ムハンマドの「真の遺産」とは、「何よりもまずクルアーンに従うことにある」と主張したクルアーンは「すべてのことを説明する」(クルアーン16:89)ものであり、ハディースは「それに優先されてはならない」 とされた。ある問題が「クルアーン言及されていない場合、アハル・カラームは「神が意図的に規定しないままにした」と考え傾向があった。彼らは、ムハンマドへの追従とは、神がムハンマド下したクルアーンのみに追従することであるとし、クルアーンが「啓典とともに英知」に言及する場合(4:113、2:23133:34)、「英知」とはスンナ派主張するような「ハディース別称ではなく、「啓典定められ具体的な規定」を意味する主張したムゥタズィラ学派による批判 その後同様にムゥタズィラ学派(8~10世紀バスラバグダッド繁栄)も、ムハンマドスンナ伝承十分な信頼性がないと考えた。彼らによれば、「ハディース単なる憶測想像産物に過ぎないが、一方クルアーン完全無欠であり、ハディース他の文献による補足補完を必要としない」とした。 アラブ・イスラム学者Racha El Omari博士によると、初期ムゥタズィラ学派は、ハディースについては「物議を醸すイデオロギー道具として悪用される傾向があり、ハディース本文(matn)は、伝承経路(イスナード)だけでなく、その思想明瞭性吟味する必要があり、ハディースが有効とされるためには、「ムタワーティル格のような形である必要がある」と認識していた。つまり、それぞれ異なる教友から開始する多数伝承経路(イスナード)の束によって支えられている必要があるとした。 イスラム法学者ワーイル・ハッラークは、ムタワーティル格(複数伝承経路報告する内容が共通・同一ハディース)とアーハード格(単一経路によってのみ報告されるハディース、つまりほぼ全てのハディース)の重要性について著しているが、中世学者ナワウィー西暦1233-1277)の主張としては、ムタワーティルではないハディース真実性は、その可能性があるということ過ぎず、ムタワーティルのハディースのような確実性には至らない述べている。そして、Ibn al-Salah(西暦1245没)、al-Ansari(西暦1707没)、IbnAbd al-Shakur(西暦1810没)のような学者は、厳密には僅か「8つもしくは9つ以下の」ハディースしか、ムタワーティル格に当てはまらないという事実を発見している。 ワースィル・イブン・アター(西暦700-748、多くムゥタズィラ学派創始者とみなす)は、4人の独立した伝承者がいる場合報告信憑性の証明なるとした。彼は、すべての伝承者一致して捏造報告することはできない考えた。ワースィル・イブン・アターがムタワーティルのハディース容認したのは、ある出来事実際に起こったことを証明するための証人という法学上の概念から来ていると思われる。そのため、一人しか目撃していない単一報告とは異なり一定の数の目撃者存在することで、その目撃者が嘘をついている可能性排除することができる。これはハディース検証においてはその名の通り、「単一人物の報告」(khabar al-wāḥid)と名されている。Abū al-Hudhayl al-ʿAllāf (西暦227/ヒジュラ歴841没)は、ムタワーティル格の伝承検証努めたが、真実性のために必要な証人の数は20人が必要であるとし、さらに伝達者の少なくとも1人信者であることを条件とした。 ムゥタズィラ学派の中で、理性クルアーン以外の知識源に最も強い懐疑心示したのは、イブラーヒーム・ナッザーム(西暦775845)である。彼にとっては、イスナードが単一経路伝承(アーハード)も、複合経路伝承(ムタワーティル)も、知識習得において信頼できないものであった。彼は矛盾するハディース数々提示しその内容(matn)の不一致検証した上で、なぜそれらが拒絶されるべきかを示した。それらは人間誤った記憶偏見依拠しており、どちらも真実伝えることができないからである。ハディース信頼性対するイブラーヒーム・ナッザームによる批判としては、ハディース様々な神学派や法学者による極論宗派性を支持するために流布されており、伝承者一人が、一つ伝承の内容捏造した疑い免れることは決しできないとした。 ナッザームの批判主義は、単一経路伝承であれ、複合経路であるムタワーティルの伝承であれ、それらの検証そのもの不合理性を指摘するに留まらなかった。彼の姿勢また、学者間のコンセンサスイジュマー)の信頼性排除するものでもあり、それは単一経路伝承検証するために考案され古典的なムゥタズィラ学派基準にとって重要であった下記参照)。このようにコンセンサスやムタワーティルの方法論両方排除したことは、ムゥタズィラ学派中においても、彼の批判鋭さ広範さが特筆されることとなった

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