初期におけるハディース批判
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「ハディース批判」の記事における「初期におけるハディース批判」の解説
ハディース検証学の成立期 古典的な「ハディース批判の体系化」は、アブー・ハニーファ(西暦767/ヒジュラ歴150没)の時代、「膨大な数の捏造ハディース」が「制御不能」な状況に陥ったときに始まった。しかし、ハディース研究/ハディース批判はアブー・ハニーファから始まったわけではなく、彼の『知的先達』であり、当時のイスラム学者マーリク(ヒジュラ歴179没)やシャーフィイー(ヒジュラ歴204没)もまた、ある意味「ハディースの辛辣な批判者」であった。スンナ派における最も権威的なハディース集となる『サヒーフ・アル=ブハーリー』が完成したのは、西暦846年(ヒジュラ歴232年)頃であると言われる。古典的イスラム学問におけるハディース検証学(ʻilm al-ḥadīth、「ハディース学問」とも呼ばれる)が「成熟期」、そして「完成期」を迎えたのは、シャーフィイー没後から約1世紀後の、西暦10世紀ごろに古典ハディース集が編纂されてからである(真正六書の著者の内、最後に死去したのは西暦915年/ヒジュラ歴303年没のアル・ナサーイーである)。 アハル・カラームによる批判 イスラム学者ダニエル・W・ブラウン博士によると、ハディースの信憑性、学術性、重要性が問われるようになったのは、ヒジュラ歴2世紀、シャーフィイーがイスラム法の最たる権威としてムハンマドのハディースを確立させたときにさかのぼる。 当時、アハル・カラーム(Ahl al-Kalām)と呼ばれる反対派は、「伝承主義者の手法とその結果の両方を強く批判」し、ハディースにおける「伝承の信頼性」を徹底的に疑った。例えば、ハディースの「伝承者の素質」に対する伝承主義者の検証法は「あからさまに恣意的」であり、ハディース集を「矛盾した、冒涜的で、不条理な伝承で埋め尽くされている」と考えた。 彼らは、ムスリムがムハンマドの模範に倣うべきであることに反対はしなかったもの、ムハンマドの「真の遺産」とは、「何よりもまずクルアーンに従うことにある」と主張した。クルアーンは「すべてのことを説明する」(クルアーン16:89)ものであり、ハディースは「それに優先されてはならない」 とされた。ある問題が「クルアーンで言及されていない」場合、アハル・カラームは「神が意図的に規定しないままにした」と考える傾向があった。彼らは、ムハンマドへの追従とは、神がムハンマドに下したクルアーンのみに追従することであるとし、クルアーンが「啓典」とともに「英知」に言及する場合(4:113、2:231、33:34)、「英知」とはスンナ派の主張するような「ハディースの別称」ではなく、「啓典に定められた具体的な規定」を意味すると主張した。 ムゥタズィラ学派による批判 その後、同様にムゥタズィラ学派(8~10世紀にバスラやバグダッドで繁栄)も、ムハンマドのスンナの伝承は十分な信頼性がないと考えた。彼らによれば、「ハディースは単なる憶測や想像の産物に過ぎないが、一方のクルアーンは完全無欠であり、ハディースや他の文献による補足や補完を必要としない」とした。 アラブ・イスラム学者Racha El Omari博士によると、初期ムゥタズィラ学派は、ハディースについては「物議を醸すイデオロギーの道具として悪用される」傾向があり、ハディースの本文(matn)は、伝承経路(イスナード)だけでなく、その思想や明瞭性を吟味する必要があり、ハディースが有効とされるためには、「ムタワーティル格のような形である必要がある」と認識していた。つまり、それぞれが異なる教友から開始する多数の伝承経路(イスナード)の束によって支えられている必要があるとした。 イスラム法学者ワーイル・ハッラークは、ムタワーティル格(複数の伝承経路が報告する、内容が共通・同一のハディース)とアーハード格(単一経路によってのみ報告されるハディース、つまりほぼ全てのハディース)の重要性について著しているが、中世の学者ナワウィー(西暦1233-1277)の主張としては、ムタワーティルではないハディースの真実性は、その可能性があるということに過ぎず、ムタワーティルのハディースのような確実性には至らないと述べている。そして、Ibn al-Salah(西暦1245没)、al-Ansari(西暦1707没)、Ibn ‘Abd al-Shakur(西暦1810没)のような学者は、厳密には僅か「8つ、もしくは9つ以下の」ハディースしか、ムタワーティル格に当てはまらないという事実を発見している。 ワースィル・イブン・アター(西暦700-748、多くがムゥタズィラ学派の創始者とみなす)は、4人の独立した伝承者がいる場合、報告の信憑性の証明になるとした。彼は、すべての伝承者が一致して捏造を報告することはできないと考えた。ワースィル・イブン・アターがムタワーティルのハディースを容認したのは、ある出来事が実際に起こったことを証明するための証人という法学上の概念から来ていると思われる。そのため、一人しか目撃していない単一の報告とは異なり、一定の数の目撃者が存在することで、その目撃者が嘘をついている可能性を排除することができる。これはハディース検証学においてはその名の通り、「単一人物の報告」(khabar al-wāḥid)と名されている。Abū al-Hudhayl al-ʿAllāf (西暦227/ヒジュラ歴841没)は、ムタワーティル格の伝承の検証に努めたが、真実性のために必要な証人の数は20人が必要であるとし、さらに伝達者の少なくとも1人が信者であることを条件とした。 ムゥタズィラ学派の中で、理性とクルアーン以外の知識源に最も強い懐疑心を示したのは、イブラーヒーム・ナッザーム(西暦775~845)である。彼にとっては、イスナードが単一経路の伝承(アーハード)も、複合経路の伝承(ムタワーティル)も、知識の習得において信頼できないものであった。彼は矛盾するハディースの数々を提示し、その内容(matn)の不一致を検証した上で、なぜそれらが拒絶されるべきかを示した。それらは人間の誤った記憶と偏見に依拠しており、どちらも真実を伝えることができないからである。ハディースの信頼性に対するイブラーヒーム・ナッザームによる批判としては、ハディースは様々な神学派や法学者による極論と宗派性を支持するために流布されており、伝承者の一人が、一つの伝承の内容を捏造した疑いを免れることは決してできないとした。 ナッザームの批判主義は、単一経路の伝承であれ、複合経路であるムタワーティルの伝承であれ、それらの検証そのものの不合理性を指摘するに留まらなかった。彼の姿勢はまた、学者間のコンセンサス(イジュマー)の信頼性を排除するものでもあり、それは単一経路の伝承を検証するために考案された古典的なムゥタズィラ学派の基準にとって重要であった(下記参照)。このように、コンセンサスやムタワーティルの方法論を両方排除したことは、ムゥタズィラ学派の中においても、彼の批判の鋭さと広範さが特筆されることとなった。
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