出生から博徒時代
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黒駒勝蔵は甲斐国八代郡上黒駒村若宮(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の名主・小池嘉兵衛の次男として生まれた。 幼少期には村内にそびえる神座山に鎮座する檜峯神社(ひみねじんじゃ)の神主・武藤外記が嘉永5年(1852年)に開いた私塾・振鷺堂(しんじゅどう)に学ぶ。勝蔵は後年に尊皇攘夷運動に参加していることから、武藤外記・藤太親子の国学思想に影響を受けたとする説もある。 安政3年(1856年)7月に勝蔵は生家を出奔し、竹居村(笛吹市御坂町竹居・笛吹市八代町竹居)の中村甚兵衛の子分となる。竹居村は上黒駒村の隣村で、上黒駒蔵と同じく石和代官支配で、檜峯神社の神領も分布している。竹居安五郎は中村甚兵衛の弟にあたる。 この頃、甲斐国では甲府の三井卯吉とその子分である国分三蔵・祐天仙之助が勢力を持ち、三井卯吉の勢力が中村兄弟や鴨狩津向村の津向文吉らの博徒勢力と敵対していた。津向文吉は富士川舟運を活動域とし、駿河の清水次郎長と同盟している。 嘉永2年(1849年)には津向文吉が捕縛され、八丈島へ遠島となり博徒間抗争から脱落する。さらに、嘉永4年(1851年)には竹居安五郎も捕縛され、伊豆国新島へ遠島となる。これにより甲斐国では三井卯吉とその配下の国分三蔵・祐天仙之助の勢力と敵対する博徒が存在しない空白期に入った。 嘉永6年(1853年)6月8日には、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊が江戸へ来航していた隙をついて、竹居安五郎が新島から島抜けを実行し、甲斐へ戻り勢力を回復する。安政4年(1857年)正月には、甲府で三井卯吉が敵対する小天狗亀吉ら博徒の連合部隊により殺害される事件が発生する。黒駒勝蔵は安政3年(1856年)7月に中村甚兵衛の子分となり、両者の間で同盟関係を結ばれる。これにより甲斐国では竹居安五郎・黒駒勝蔵と国分三蔵・祐天仙之助が敵対する構図で抗争が展開された。 勝蔵は中村家の有力子分として上黒駒村戸倉を拠点に一家を構え、国分三蔵・祐天仙之助と抗争を繰り広げつつ、安五郎を探索する甲州代官や関東取締出役の手代とも対決する。文久元年(1861年)3月頃には金川河原において国分三蔵との間で出入が発生する。以後、国分三蔵とは数次にわたる出入を繰り広げている。 勝蔵は甲斐国外の駿河・伊豆・伊勢の博徒とも関係を深め、駿河の宮島年蔵や伊豆の赤鬼金平・大場久八、伊勢の丹波屋伝兵衛と同盟を結んでいる。文久元年10月、東海道の菊川宿(静岡県島田市菊川)において、駿河の博徒・清水次郎長と伊豆下田の赤鬼金平の手打ち式が行われる。勝蔵はこの手打ち式に金平派として出席しており、このとき次郎長とも対面している。文久2年(1862年)には、竹居安五郎が石和代官所手代により捕縛され獄死する。勝蔵は安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ、上黒駒村戸倉を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせた。 文久3年(1863年)3月15日、勝蔵は勝沼の祐天仙之助宅と国分三蔵宅を襲撃するが、祐天はいち早く逃亡し、三蔵は用意していた鉄砲で勝蔵一党を撃退する。なお、三蔵は従来これ以降は消息不明とされていたが、後述する新出史料の発見により、在地において明治維新期まで活動していたことが指摘される。 同年、勝蔵は東海道筋へ入り、清水次郎長の勢力圏である駿河岩淵河岸や興津宿を襲撃した。5月10日には天竜川で次郎長・大和田友蔵連合と対陣するが干戈を交えず引き上げた。同年6月6日、勝蔵は三河国の博徒・雲風亀吉のもとに潜伏していたが、次郎長による襲撃を受けて子分5名を殺害された。 元治元年(1864年)4月より甲斐へ戻り、兵器・要員を調達し、甲府勤番よりその動向を注視されていたが、10月17日夜、竹居安五郎の敵である犬上郡次郎の居場所であった勝沼町等々力の萬福寺を急襲し、郡次郎の首を上げた。郡次郎を殺害すると、以降、役人や敵対する博徒の追尾をかわしながら、御坂山地に潜伏した。 慶応元年(1865年)7月に石和代官所が大規模な山狩りを行うと、甲斐国外へ逃れる。慶応2年(1866年)4月6日には荒神山の出入が発生する。 世田谷領代官大場家文書には、慶応2年6月付の勝蔵一党50名の人相書「関東御取締歎願甲州集盗人相書」が残っており、勝蔵が大人数の手勢と共に東海道を徘徊していたことがうかがえる。この人相書では、勝蔵自身は「中丈にて色白し」としか記録されておらず、その身体的特徴を十分に伝えているとは言えないが、同行した兄弟分、子分らの出自、人相、年齢が詳細に知られるという点で貴重な史料である。
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