出生から即位、実権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:17 UTC 版)
「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「出生から即位、実権掌握」の解説
ピョートルは1672年5月30日にツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチと2番目の后妃ナタリヤ・ナルイシキナの子として生まれた。ピョートル出生時に存命している兄弟としては、フョードル3世とイヴァン5世の異母兄2人および異母姉5人がおり、姉の一人に14歳上のソフィアがいた。 1676年に父アレクセイが死去すると異母兄フョードル3世が即位したが、在位6年目の1682年4月27日に死去した。精神障害のある異母兄イヴァンはその外戚であるミロスラフスキー家と姉ソフィアに擁されていたが、ピョートルは総主教とストレリツィの支持を受けて即位し、母方ナルイシキン家の政権が成立する。 しかし、即位後まもなくミロスラフスキー家に扇動されたストレリツィの蜂起(ロシア語版、英語版)が起き、彼らはクレムリンに乱入して、ナルイシキン家の有力者を殺害した。ミロスラフスキー派はこれに乗じてイヴァン5世をツァーリとし、ピョートルはその共同統治者に格下げされた。イヴァンの同母姉ソフィアが、テレム宮から出て幼い2人の弟の摂政として実権を握った。 ピョートルは母とともにモスクワ郊外のプレオブラジェンスコエに移り、儀式の際のみクレムリンを訪れた。ピョートルの教育係は後に側近となるニキータ・ゾートフ(英語版)が務めた。少年時代のピョートルは近くの外国人村に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んだ。また、遊戯連隊(英語版)を編成して戦争ごっこに勤しんでいる。スイス出身のレフォルト、下士官出身のメーンシコフを側近に取り立てたのはこの時期とされる。1689年、16歳になったピョートルは母の勧めによりエヴドキヤ・ロプーヒナを后妃に迎えたが、彼女を愛することはなく、後に不幸な結果を招くことになる。 ソフィアの摂政政府はヴァシーリー・ゴリツィン公がストレリツィの蜂起で実権を握っており、進歩的な政策を行い内政・外交ともにおおむね良好に統治していた。だが、露土戦争の一環としてオスマン帝国の従属国のクリミア・ハン国に対して1687年と1689年に行われたクリミア遠征の失敗により不満が高まり、ピョートルが成長するとナルイシキン家などの支持派は彼の親政を望み、ソフィアの摂政政府と対立した。ピョートルは一時は至聖三者聖セルギイ大修道院への避難を余儀なくされた。1689年8月のネルチンスク条約締結によってソフィアは官僚、軍人、教会の支持を失い、9月にはピョートルへ政府を明け渡した。ゴリツィンは流罪となり、ソフィアはノヴォデヴィチ女子修道院に幽閉された。 ピョートルは当初、国政を母ナタリヤらナルイシキン一族に委ねて、相変わらず外国人村を訪ねたり、軍事演習に熱中し、また仲間と馬鹿騒ぎをしながら過ごしている。ナルイシキン一族の政権はアレクセイやソフィアの政策に逆行する保守的な統治を行っていたが、1694年に母が死去するとピョートルは親政を開始した。また名ばかりの共同統治者イヴァン5世の死去(1696年)で単独統治に入る。
※この「出生から即位、実権掌握」の解説は、「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
「出生から即位、実権掌握」を含む「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の記事については、「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の概要を参照ください。
- 出生から即位、実権掌握のページへのリンク